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2018-05-17

【法話】坊主として気をつけている3つの誓い その3

高野山で尊敬する師僧に教えられたこと。

在家から仏門に入り感じたこと。

日々お遍路さん、檀家さんと接して感じたこと。

 

それらを自分の中に落とし込んで3つの誓い、即ち自分なりの「戒」を持っています。

 

  1. 仏様の前に立たない
  2. 仏様にしわ寄せをしない
  3. 暇な人でいる

最後の3つめについて書きます。


暇な人でいる


なんてことはない。言葉の通り、暇な人でいる、ということです。

しかし、仕事を一生懸命やればやるほど、暇な人ではなくなります。

能力がある人であれば尚更。周りが放っておきません。何かしら頼み事をされ、役職を与えられ、気づけば自分の時間がほとんどありません。

お坊さんも同じです。

お寺のことを一生懸命やり、檀務を丁寧にし、信者さんとも懇ろのお付き合いをすれば、とても忙しくなります。

加えて本山の役職を受け、泊まりがけで高野山や京都に出向いて、自坊以外の宗派全体或いは仏教興隆のために身を粉にして頑張る。付き合いの宴席に行く機会も増えるでしょう。

 

その結果・・・

 

「おじゅっさん(小豆島でのお坊さんの呼び名)、忙しそうにしてるなぁ。」

「いつ行っても寺におらんな・・・」

「相談したいことあるんやけどな・・・」

と言われます。

「忙しそう」は勲章ではありません。皮肉です。

おじゅっさんなら「頼りになる」「会えてよかった」「このお寺でよかった」と言われたいものです。

そのためにはある程度「暇な人である」必要があります。

 

この考えに至る大きな理由が2つあります。

 

まず1つは、修業時代に尊敬する師僧に質問したことがありました。

「あなたが理想とするお寺はどんなお寺ですか?」

「しっかり行法(朝夕の勤行など仏前で行う祈り)ができて、本を読んで勉強する自分の時間がちゃんとあるような暇な寺かな。」

そんなもったいない。貴方の能力ならもっと世のため人のために活かせるはずなのに。と思ったものですが、

現実には暇な寺は食べていけません。

暇じゃダメだと、一生懸命稼ぎを作ります。

場合によっては、兼業してお寺を維持します。

そうなると、ウィークデーは日中ずっと仕事で、土日はお寺の仕事、なんていう大忙しの状態になります。

その中で自分の時間を確保しようと思ったら、家族や子供との時間もあるので、仏様をほったらかしにすることになるでしょう。

食べていくくらいの収入を確保しつつ、自分の時間もしっかり確保する、というのはとても難しいことで、真に能力の高い人だからできる技なのかな、と思いました。

言い換えれば、「暇な自分をつくる」力強い信念を持って絶えず行動していくことで、よっぽど時間の密度が濃くなります。

 

また、暇を暇のまま「それでもいい」と思うためには、よほど自信や根拠がないとできない、と思います。

こんなに暇だったら将来大丈夫かな、焦って空き時間を埋めたくなります。貧乏暇無しです。

動き回ってみたものの、稼ぐどころか余計な出費をつくり、挙げ句、檀家や信者の信頼はまるで上がってない、という悪循環になります。

しかし、動いていると、やるだけやった、という自己充足感は満たされます。こんなに頑張って、ダメなら諦めもつく、といった具合です。

そういう風潮に流されることなく、自分を律し、成功や名声という執着から解き放たれた状態が「暇でいい」とする達観なのではないでしょうか。

これくらいで良し、と思って幸せを感じる「足るを知る」境地です。

 

修業時代に、「お前は何者でもない」「執着が身を滅ぼす」と言われました。

人間誰しも、自分の肩書きにこだわったり、自分はもっとできる、もっと名声を得て、もっと賞賛されたい、もっと承認されたい、もっと所有したい、もっともっと・・・という妄想にとらわれています。

その要求に際限はありません。

 

その我欲に打ち勝つのはとても難しいことです。私も百戦百敗に近いくらい負け続けています。

気がつかないうちに沸々を湧き上がる執着心。

それに囚われた末に、浪費と散財を繰り返す。「忙しい」と家族に予防線を張り、子供に「近寄るな!」と怒る。

みっともないったらありゃしない。

これくらいで良し、と思って満足する「足ること」を知らなければ人は幸せを感じることはできません。

それに囚われないためにも、自分自身の戒として、真ん中に置いておかなければならないと思います。

 

暇なので、いつも”ソコニ居リマス”を表現したかったアイコン。

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