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2015-12-05

あらためて自己紹介

あらためて自己紹介をします。
常光寺と碁石山のWebサイトを管理している大林慈空(じくう)39歳。かぞえ40歳の超おっさんです。
2009年3月に高野山の専修学院(66期)という修行道場を卒業して、32歳で坊主として小豆島に住み始め6年目になります。

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それまでは大阪でサラリーマンをしていました。業種はシステムエンジニア(以下SE)というコンピューターを使う仕事で、辞める直前は社内のシステム管理と新人教育係をしていました。なにかと引継ぐことが多かったので、一月分くらい貯まっていた有給を消化することなく、会社を辞めた2,3日後くらいに道場に入り、そのまま1年間、俗世間とのつながりを断って高野山に籠もることとなりました。そして、修行を終えた後も、すぐに小豆島に移り住んだので、大阪時代の友人とか同僚とか、未だに挨拶もそこそこな人がいて、あいつは一体どこで何をしているのだろう?と思われているかもしれません。
今は、FacebookなどのSNSによって、古い友人や同級生とつながりやすい世の中になっていますが、私の場合、性も名も変わったので、元誰なのか追っかけるのが中々難しいと思います。ちなみに、名は僧名となり、性は父方の性から、母方の旧姓の大林に変わりました。
母方の旧姓ということで、坊主となったきっかけは、母の実家であるお寺の後継者が不在だったためです。とてもシンプル。
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修行道場の山門

修行道場の宿舎

修行道場の宿舎

「坊主にならんか?」と現住職に声をかけられ、ほんの少し考えましたが、なぜかピンと来て、半年後には会社を辞めていました。
今思うとどうしてあんなに簡単に仕事を辞めたのか?疑問に思います。
別に仕事が嫌いだったわけでも、やり甲斐がなかったわけでも、社内のポジションが悪かったわけでも、人間関係で苦慮していたわけでもありません。確かに給料は安く、残業は多く、会社に寝泊まりしたり、休日出勤があったり、安定した職場でもなかったですが、それはどこの会社でも似たようなもの。
坊主になったからと言って、バラ色の未来が待っているなんて保証はないし、小学生までは夏休みの度に里帰りしていた馴染みの土地と言えども、小豆島にちゃんと住んだこともなければ、友達も居ません。給料とか福利厚生とかそういう説明も一切なく(聞かなかった)、仕事の内容も、坊主とはどういうことをする人なのかも知らないまま、ただ直感で坊さんになるんだろうな、と思ったことを覚えています。
どうしてでしょうね。
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冷静に頭を冷やして、たぶんこれかなぁと思うことを2つだけ書きます。
まず、将来に不安をもっていた。
SEの給料って基本給はとても安く、職能手当、資格手当、残業代で、基本給以上の収入があって、ようやく人並みに生活しているレベルに達します。SEに限らずIT系の技術職はどれも似たようなもので、若くて体力がある内は、鬼のように残業したり、会社に寝泊まりして、第一線で頑張れるのですが、30歳を過ぎてくるとだんだん厳しくなってきます。そこで、現場から管理職や営業職へシフトしていく人が出てくるわけですが、もともとコンピューターが好きでその業界に入っている人が多いので、人間管理とかやりたくない仕事にストレスを溜めて鬱になったり、会社に来なくなったりする人が多かった。
さらに、アメリカなどの事例を見ると、コンピューターに強く、英語が話せ、人件費も安いインドに職がシフトし、日本もいずれそうなることが予想できました。全てがそうとは思わなかったけど、海外の安い労働者に取って代わられる職種の代表だと思いました。
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もう一点は、目指すべき将来像が見当たらなかった。
これも将来に関わることだから、結局は同じことなのかもしれませんが、鬱で辞めていく人がいるくらいなので、楽しそうに生き生きと働いている人がとても少なく、いずれ自分もそうなってしまうのではないか、いつまで現状維持ができるのだろうのだろうか、という不安が常に付きまとっていました。
会社の上司を見て、「あぁは成りたくない」と思う人はいても、「あの人みたいになりたい」と強く惹かれる人はほぼゼロ。そもそも、大阪という土地柄か、「儲けてなんぼ」の守銭奴ばかりで、どこどこの社長で億万長者であっても、人間的に尊敬できない人が多く、ここじゃないどこかの誰かを期待していたように思います。
まぁ、これは今から思えば恥ずかしい話かもしれません。当時の私は、何か模倣する拠り所が無いと不安で、自己の判断に自信が持てず、自分が切り拓く気概も覚悟も持ち合わせていなかった人間だったということです。加えて、そういう低いレベルで停滞していた自分が、素晴らしい人間性の人と出会っても、会話が続かず、相手にしてもらえないゆえに、評価を誤ったり、存在自体に気づかなかったことも大いにあったと思います。
とまぁそんな理由で、ここじゃないどこかを、「高野山で修行」というものに求めたのかもしれません。
高野山とか小豆島とか、そういう新天地を楽しむ癖はもともとありまして、育ちは大阪ですが、学生の頃は東京、そのあとアメリカの西海岸に留学したり、海外一人旅や国内各地への自転車旅行もよくしていました。
だから環境が変わるということ自体に抵抗はなく、そこが嫌なら別の場所に移ればいいし、仕事も向いてないと思えば別のことを始めればいい。
ダメならダメでなんとかなるっしょ!という感じで坊主になり今に至る、です。
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つづく

 

以前、インタビューを受けた記事も紹介しておきます。

こちらはFMで全国に流れました♪

< つづきの内容はこちら>

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