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YouTubeはじめました。

コロナ禍で、誰も彼もが、「YouTubeをはじめました」となって、今更感がアリアリなんですが、YouTubeはじめました報告をいたします。

正確には2021年の4月から、年度が変わったのを機に本格的にやり始めました。

チャンネル名は「小豆島の坊主じくう」として、小豆島遍路の情報をわかりやすい言葉で紹介しています。

お遍路情報以外にも、小豆島についてなにか語る機会があるだろう、と想定して「小豆島遍路チャンネル」みたいな名前にはしませんでしたが、SEO的に、視聴者目線では、後者の方がわかりやすくてよかったかもしれないと思いました。

でも、気づけば、碁石山での朝勤行がメインコンテンツになって、偏りが激しいので「小豆島の坊主じくう」が妥当でしたね。

目的とかビジョンとか始めた理由とか・・・

で、このチャンネルの目的とかビジョンとか、始めた理由については、自己紹介動画を作っているので、そちらを見ていただくとして、そこでは語らなかった裏目的というのがあるので、それについて書きます。

それはずばり「知識とスキルの取得」です。

Webサイトもそうですが、動画編集も、必要な機材が安くなり、パソコンの性能が上がって、素人が手を出せる時代になりました。

コロナ禍でYouTubeを見る人がドカッと増え、これからスマホの画面がもっと見やすくなって、通信速度も速くなると、視聴人口は増え続けるでしょう。
テレビがYouTubeに置き換わって、YouTubeから別のなにかに置き換わっていくとしても、動画編集、動画作成のスキルは廃れることはありません。

動画編集は時間がかかるから外注したほうがいい。費用対効果うんぬん・・・を言う人がたくさんいますけど、誰かに依頼するにしても、顧客のレベルが低いと、業者を活かせません。
古刹だと、映像として残すべき貴重な仏像、建造物、庭園などがあるわけですが、編集視点を持っていれば、依頼の仕方も変わってきますし、ドローンで飛ばすべき、飛ばさないべき、これをしてもらっては困る、これはOKの線引もできます。
わからなかったら、高いお金をかけても、作りたいものにならない可能性が高いです。

素人に毛の生えた程度でも、広く浅く自分で勉強し続けることが大切なのは、この歳になってくるとしみじみ思うんですよね。

同世代の人に教えられる程度には、勉強を続けておくことで、ようやく頼りになるおじゅっさんになれると思っています。

これからのお寺の役割を担うためにも

別のエントリーで書いたと思いますが、私が考えるお寺の存在意義って、「安心を与える」ことだと思っています。

お葬式、法事、祈祷、法会etc. お寺で行うさまざまなことは、檀家さんや信者さん、周辺地域の人たちに「安心を与える」手段です。
お葬式がしたいわけではなく、大切な人を送るために、遺族が一番納得感を得られて、安心できる手段として、作法に則ったしっかりとしたお葬式を上げるわけです。

仏教の〇〇をするのがお寺だ!

お大師さまの御教えを布教するのがお寺だ!

住職であるワシがやりたいこと・思いついたことを実践する場所がお寺だ!

お坊さんによって、お寺の目的はさまざま分かれるかもしれません。
しかし、私の考えるお寺の役割は、「安心を与える」ことで、仏教はそのための手段でしかありません。

そもそも、宗教自体が人間の不安や疑問に答えるために、生まれてきた習慣だと思っているので、不安を取り除き、疑問に答え、安心を与えるために、仏教の教えを用いているのがお寺なわけです。

その一旦として、お寺の活動やお寺の人間の考え方を可視化することは、安心を与えるための一助となるはずです。

そんなわけで、YouTubeでは、遍路作法や仏教的な知識についての解説をメインに、私が考えていることや、時事ネタについての解釈などをコンテンツにしていきたいと考えております。

毎朝8:00から朝勤行のライブ配信を行っています。

どうぞよろしくおねがいします。

コロナ禍で得た知見

コロナの時期にまったく投稿しておりませんでしたので、生存確認がてら今思うことを徒然に・・・

2020年春の遍路シーズンは、コロナ禍の緊急事態宣言で、シーズン自体がまったく無くなってしまいました。

小豆島の観光シーズンであるGWも、同様に無くなってしまって、2020年は年間通して、小豆島全体の霊場・観光産業は近年稀に見る大惨事となりました。

コロナが騒がれ始めた時は、どうせ1ヶ月後、長くても3ヶ月後に笑い話になってるんじゃないか、なんて楽観視してたものですが、1年経っても状況は変わらずなので、大きく見積もりを誤りました。
そのうち、いつもどおりの日常が・・・と頭を切り替えることなく、ダラダラと受け身にルーティーンを繰り返してしまったので、去年1年間は、本当に何もせず、記憶に残らない時間の使い方をしてしまいました。

そういうわけで反省がまずあるわけですが、そこを掘っても何も出てこないので、よかったことを考えると、15個くらいあります。

一通り列挙していくと

  • 大きな自然災害に見舞われなかった
  • 都市部と比較すると小豆島で子育てできる幸せを実感した
  • 軽い鬱状況になって何もやる気がでないという状態を体験できた
  • 高齢者に限らず怖いのはウィルスより人だというのを知ることができた
  • YouTubeを見まくったおかげで、新しい知の分野に触れることができた
  • ソーシャルゲームとはどういうものか身をもって体験できた
  • イラストを担当した島在住の作家さんの遍路本が出版された
  • コロナ禍の中でも、2020年も2021年も卒業遍路ができた
  • コロナ禍の中でも、夏にファミリーキャンプができた
  • 遍路道の整備を霊場会のメンバーで年間通してできたのできれいな状態を保てている
  • 小豆島子ども・若者支援機構とご縁ができて10代の若者たちに関わる機会ができた
  • オンラインながら移住者交流イベントができた
  • 空き家の仏壇整理がどういうものか実体験できた
  • お寺の位牌整理ができた
  • 2021年春現在、コロナ禍の反動でいろんなことにやる気がでてきた

良いことばかりではないかもしれませんが、大事なのはとらえ方です。
一番大事なのは最後の、反動でいろいろやる気が出てきている点。大事なのは今!

コロナ禍で医療関係者や商売が成り立たなくなって生活が崩壊した人がいる現状で、なんでもかんでもよかったことにできない面もあります。
それでも、生きている以上、生きていかなければならない以上、

「これからどうする?」

を考えることがまず最優先です。
これからが良くなれば、今も過去も必要な糧。これからが悪くなれば、今と過去は悪くなった原因になってしまいます。

未来の自分が今を振り返ったときに、後悔する原因にだけはなりたくないものです。
そのためには、「あんな環境だったけど、いろいろ試行錯誤してあがいてたな」というのが残れば、後悔は絶対起こりません。
新型ウィルスによって、世界が様変わりするなんて、誰も予想がつかないし、誰のせいでもないのですから。


15個のよかったの中から一つだけピックアップして、詳述しておくと

YouTubeを見まくったおかげで、新しい知の分野に触れることができた

が、わたしにとっては一番のコロナ功でした。

コロナ禍でYouTubeをはじめる人が圧倒的に増えました。
お笑い芸人をはじめとして芸能人の参入が特にすごかった。
それによって、YouTubeチャンネルの質も飛躍的に上がったと思います。

今まで、すばらしい講演や講習会的なものは、高いお金を払って、クローズドな空間で開催されるのが常でした。
本山が主催する坊さんの研修会がまさにソレです。
小豆島からだと交通費がかかるので、費用対効果は最悪、3万円以上払って価値のある講演なんて、おそらく何もないだろうと思います。

ちなみに本山が主催する御室派研修会なんてものも、オンラインでやってくれたので、それはとても良かった。
特に同じ御室派の青年教師会員である「おてらおやつクラブ」の主催者 福井良應僧正がファシリテーターをする講習会は、グリーフケアの知識を学べたので、とても有意義でした。

YouTubeの動画の中では、中田敦彦のYouTube大学、マコなり社長さん、鴨頭嘉人さん、近畿大学の卒業スピーチ、TEDなどの講演がとってもためになりました。
もちろん、世代も環境も違うので、100%賛同なんてのはありえないわけですが、若い世代とどれくらい価値観に開きがあるか、若い人が好きなチャンネルってどんなのか、等、講演者は若い人じゃなくても教育系だと、20代、30代にフォーカスして話している内容が多くて、たくさん発見がありました。
と同時に、自分の立ち位置をよく知っておかないと、あっという間に老害化することもよくわかりました。

わたしは今年アラフィフに突入する世代ですが、カテゴライズすると団塊ジュニアです。
その私たち世代の半分くらいしか人数がいないミレニアル世代が、これからの日本を創っていくことになります。
将来お世話になる以上、相互理解を深めておく必要があります。

その世代はテレビを見ず、お金と食の優先度が上の世代よりも低く、自己肯定感・自己承認欲求が高い傾向があるようです。
高級外車やきれいな女性をはべらすことが絶対的なステータスだった時代から、ソーシャルネットワークの中でのステータスに投資価値がある時代になった。
結婚式は費用対効果が悪いので、行わない選択、子供も作らない選択、そもそも結婚はしないという選択、おのずと家という概念は軽視され、限られた人生という時間を好きなように楽しんで生きる。

一時期話題になった、オリンピックの女性人事すったもんだに代表されるように、女性は3歩下がって・・・、女子供は黙っとれ・・・の時代から、LGBTQは知っていて当然の人間として最低限の素養時代へ、超高速で移り変わりました。
そのLGBTQの比率が、若者の人口比率だというのだから、驚きです。

若い人の価値観の根底にあるのは、自分たちは圧倒的マイノリティであるということ。
私たちの世代は、マジョリティのマウントを知らず知らずしてしまう、ということ。

この違いをわかっていないと、若い人たちとちゃんとコミュニケーションがとれないような気がします。
それがわかったことは大きな成果でした。

果たして、若者の何%が、将来お墓を建立し、法事をしてくれるでしょう?

自分たちの結婚式も費用対効果でやらない選択をする合理脳が、儀式に価値をおかないことは自明ですね。

これからはそういう時代だとはっきり予想して、お寺のあり方を考えていく必要があります。

今まで通りを求めると廃寺まっしぐら。
厳しい時代です。

パワースポット?!

最近小豆島随一と言われる夏至観音

まず初めに申しておきますと、パワースポットは、ついこないだ辞書登録された新語なので、ここで書く全ては、この新語の黎明期における一論になります。

それを踏まえてぶっちゃけると、パワースポットをありがたがる近年の風潮は、一過性のブームなので、早晩廃れるように思います。

パワースポット巡りという言葉がキャッチーなので、ビジネス目的で使われて市民権を得ましたが、より受ける方向へ流され変化しているので、言葉自体がいつまで経っても定まらず、いずれ使い捨てられると思います。
それはみんなわかった上で、でも流行に乗らない手はない。各地の観光協会も、旅行代理店も、神社仏閣さえも、よくわからないままに波に乗っているわけです。

「○×出版ですが、今度香川県のパワースポット巡りという特集で、碁石山を載せたいと思うのですが、写真を2・3点送ってくれますか?・・・・私はそちらに行ったことがありませんので、ええ、いただけますと有り難いです。そうそう崖のお地蔵さまの・・・不動明王?ああソッチです。」

パワースポット認定の流れはこんな感じです。
言葉悪いですが、これで「香川県 パワースポット」で検索した鴨がひっかかって、ネギ背負ってやって来ます。

実際、本当にやって来てくれるので、私はパワースポット大歓迎派です。
神仏の有り難みを考えないスタンプラリー的なパワースポット巡りは許せない!なんて微塵も思いません。
今まで届かなかった層にリーチする魔法の検索ワード「パワースポット」素晴らしい!と思います。

しかし、そうして来てくれた方に、

「ここはパワースポットですか?」

「パワースポットなんですよね?」

と聞かれることがあります。

パワースポットの恩恵にあやかるために、パワースポットと言われた場所に来たのに、そこがパワースポットがどうかもわからない。

そもそもパワースポットの定義ってなんぞや?

Wikipediaによれば

「地球に点在する特別な場のこと。エネルギースポット。気場」
らしい。

でも、この意味でパワースポットをとらえている人ってどれくらいるんでしょうかねぇ。

神仏の力を感じる場所。
自分が癒される場所。
なんとなくパワーを得られる場所。

くらいが、感覚的に市民権を得ている「パワースポット」なんじゃないだろうか。

と、なれば、〇〇神社、〇〇寺、〇〇の大木、〇〇の大岩、〇〇の滝なんてのに加えて、庭の桜の木の下や、近所の公園のブランコ、自宅の縁側なんかもパワースポットに成り得る可能性が出てきます。
ここが1番気持ちいいんだよ。安らぐんだよ。また行きたくなるんよね。
そんな場所は、わざわざ遠出しなくても、日常に溢れています。
もし、自宅の庭の桜の木の下を、まったく見ず知らずの他人に勧めたとしたら、その他人は、そこがパワースポットだと思わないでしょう。

「居心地の悪い他の家の庭の何でも無いただの桜の木の下。日陰がちょっと涼しくて、風の通りがいいけれど、そんな場所その辺にいくらでもあるし・・・むしろ、ここからは愛犬が車にはねられた忌まわしき交差点が一望にできる。陰鬱な思い出を呼び起こしてしまう。パワースポットどころか、マイナススポットだよ。」

なんてまったく逆の感覚になるかもしれません。

パワースポットの定義にいくつか注文をつけるとしたら、まず「その人にとって」という縛りは必須です。

要するに万人受けするパワースポットはありません。
だから、他人のすすめるパワースポットが、自分にとってのパワースポットかどうかなんて、わかりません。わかりませんので、「ここはパワースポットですか?」と疑問に思って、確認しなければならないような場所は、貴方にとってパワースポットでもなんでもない、ということです。

そこに来た瞬間に、受け入れられている感じがする。気持ちが良い。相性がいい。そんな場所。

お遍路をしていると、八十八ヶ所というたくさんの札所を巡ります。
どこもかしこも、神仏が身近にあり、多くの人の気を集めるスポットで、歴史や謂われがたくさんあります。
でも、人によって「またお参りしたいなぁ」と思う札所はバラバラで、私はあそこが好き、あそこはイマイチ。なんか嫌な感じがした。恐かった。寒かった。そんなふうに評価が分かれます。
実際、私が好きな札所を、人にすすめても、たぶん自分にしかわからないと思うので、安易におすすめはしませんね。

今まで、伊勢神宮、出雲大社、戸隠神社、靖国神社、京都御所、浅草寺、熊野古道、高野山、大峰山、石鎚山、パワースポットと呼ばれる代表的な場所を訪れてきましたが、好きと思うところもあれば、二度と行かないでいいな、と思う場所もあります。

また、パワースポットの要素には、場の力だけじゃなくて、人の影響も多分にあると思います。

良い場所なんだけど、必ず嫌な人がいる。
そんな場所が元気を授けてくれるとは思えません。

逆に、気持ちのいい場所に、人が集まって、みんな活発に動いている。エネルギッシュな場所。
そういう場所はパワースポットになり得ます。
ニューヨークのタイムズスクエアに行った時に、マントルのコアのように、人のエネルギーがぐつぐつしていて、はじめてパワースポットという言葉を意識した覚えがありました。

パワースポットは移り変わる。

これは、石鎚山に登っている時に感じたことですが、標高2000m級の山なので天気が目まぐるしく変わり、雨、晴れ、雨と来て、また晴れた時に、休憩した場所が、木漏れ日が温かくて、ピンポイントで風の通るとても気持ちの良い場所でした。
そこに居た誰もが、ここは竜穴(風水の山脈が流れる気が集中する場所)でパワースポットだ、と感じたと思います。
しかし、次の年は、天候が安定していたので、その場所を通ってもパワースポットを意識することはありませんでした。

この地点から半径10mがパワースポット!という固定化されたものではなく、天候や、人や、その人の内面など、環境によって流動することがある、というのもパワースポットには当てはまる要素なんだと思います。

最後に、掃除が行き届いている清潔な場所であればいいと思います。
良い場所なんだけど、常に汚れている。気持ち悪い。臭う。
パワーがもらえるけど臭い。吐き気がする。
そんな場所はパワースポットたり得ません。

碁石山がパワースポットと呼んでいただけるなら、そこにいる人(=私)によってマイナスを感じないことと、気持ち良く参拝できるように、最低限掃除をしておく。
というのが、大切なことなので、そこは気をつけたいところです。

宝生院のシンパクも必ずパワースポットと言われる

まとめると、
・パワースポットは流行り言葉なので、定義があいまいで、人によって解釈がまちまち。
・人によってそこがパワースポットだ!という感覚もバラバラなので、万人に共通するパワースポットなんてありません。
・パワースポットは、貴方にとってのみ特別な場所なので、貴方自身の感覚で見つけ出して、大切に保全してください。
・他人から教わる必要もなければ、教える必要もありません。
・そこにいる人や自分の環境によって、パワースポットは移り変わります。
・近場であればあるほど、パワーを得られる機会が多くなるので、なるべく近場で見つけるのがお得。

おまけ

パワースポットは新語ですが、もともとの言葉は、

霊験あらたかな場所

になるかと思います。「霊験あらたか」は、神仏の効験が明らかに表れるさま。とされます。
”神仏”という縛りがありますので、日常的な自宅の縁側なんかは、本来含まれないのかもしれません。
もし、自宅の縁側が、亡くなったお婆さんがよく日向ぼっこをしていて、そこで昼寝をすると必ずお婆さんが表れて戒められる、なんて場所だったら、ご先祖様の霊験がある場所扱いで、別ですが。

文中にも出てきますが、風水でいう

竜穴

というのも、パワースポットの別名であるように思います。
竜脈に沿って山脈を流れる気が集中する場所。繁栄をもたらす吉祥の地とされ、都市・寺社・家屋などが建設された。(コトバンクより)

お寺や神社って、その土地の1番災害が少ない場所に建っていることが多いです。
水の通り道になっておらず、地震などの被害も少なかった地盤がしっかりした一等地が選ばれますので、いかにもパワースポットっぽいです。

あと

ゼロ磁場

という概念も知っておいた方がいいでしょう。

ゼロ磁場は、その地点では、方位磁石のN極とS極がせめぎ合って、どこも差さないという稀有な土地です。
ゼロ磁場は昔から好んで寺社仏閣が建立された場所で、伊勢神宮や諏訪大社、高野山もゼロ磁場にあるとされます。
私の知人のお坊さんでも、そうした例に倣ってゼロ磁場にお寺を創ったという方がいました。

こうして見るとパワースポットという言葉は、縁起の良い場所を分類する1番ざっくりとした括りなのかもしれませんね。

行くと必ずいい気持ちで帰られる銚子渓はお気に入りのパワースポット

遍路とは人生なり

遍路とは人生のようだ

ふーーーん、そうなんだ。
30代前半、初めて触れた時にはそれくらいの印象だった言葉。

何かの書物で読んだ時も、それっぽい美辞麗句を並べているような内容で、その言わんとするところが心に残らなかった。

つい先日も同じ言葉を、こんどは歩き遍路の男性から直接聞いた。

「この年になって初めてわかりますが、遍路とは人生のようです」

「歩き始めて、最初の日、そこから20番くらいまでは、がむしゃらに急くように歩いていましたが、半分くらい回ると、自分の歩くペースやリズムがわかってきましてね。ゆっくりお参りすればいいんだ、と思い始めて、はじめの方はもっとちゃんとお参りしておけばよかったと思うんですよ。
そして、あと10箇所くらいになってくると、もったいなくて、寂しくなってくるんですよ。あぁ、あとちょっとで終わってしまう、ってね。
私はまだ60代ですが、88歳まで生きられるとすると、残り数えるくらいの年月になって、大事に生きないといけない、と思うわけです。同時に若い頃の突っ走っていた自分に、なんでそんなに急いでるんだ、そんなに急がなくてもいいよ、もっと丁寧に生きろ、と言ってやりたい。遍路は人生とそっくりです」

そんな言葉を聞いて、心に響くのは、私も相応に歳をとったのだろう。

今なら身に染みてよくわかる。

母親になれば、母の気持ちがわかり、父親になれば、父の気持ちがわかるように、自分の身をある段階におかないと見えてこない景色やわからない言葉がある。

限られた休日を、事細かにスケジューリングして、今日はあそこまで行かないと!とノルマを課して歩くお遍路に意味はない、とは思わないけれど、目にする景色の美しさも人の優しさも、時間という優先順位の下に追いやられて、焦燥感の素になってしまうような遍路だったらもったいない。その一瞬一瞬を楽しめない時間の使い方ももったいない。

遍路はいろんなことを教えてくれる。

今年の小豆島の春は、晴れ間が見えない雨ばかりの日が続いて、4月になってようやく桜が開花しはじめた。去年より1週間以上おそい春の到来。

春は1年で1番お遍路さんが多いシーズンで、毎年同じ日にちの同じ時間にやってくる遍路団体の人も多い。
みなさん、口々に

「こんな年は珍しい。〇十年お参りしているけど、同じ年はないなぁ」

と言う。

それを聞くと、小豆島に来て、地元に帰るお遍路の数日間も、毎年異なる1年のようで、人生のようだ、と思わないでもない。

本坊常光寺の桜


2019-04-02 | ブログ

新年度スタート

今日から新年度。新たに元号が発表され、心機一転ブログの更新をマメにしていきたいと思います。
ちなみに予想した元号は、泰安で、「安」を使う元号になるかな、と思いました。妻は平和の「和」が使われる、と予想して見事的中したので、私すごいアピールが過剰で困りました。

常光寺の桜

さて、新年が明けて早3ヶ月が経つわけですが、今年は碁石山にとって意味深い1年になります。

今年の干支は猪。
干支を表す仏様は、八体仏の阿弥陀如来ですが、碁石山の本坊である常光寺のご本尊「薬師如来」を守護する十二神将が一人「宮毘羅(くびら)大将」も亥年の仏様として信仰されています。
宮毘羅大将はもともとクンビーラ(マカラ)といって、インドからやってきたヒンドゥー教の神様が日本にやって来て仏様になりました。そのクンビーラは、ガンジス川の守り神ガンガーの乗り物だったそうで、日本でも船、すなわち海上安全の神様である金比羅大権現としても信仰されてきました。
インド発祥の神クンビーラは、仏としては宮毘羅大将、神としては金毘羅大権現になった、というわけです。
ややこしいですね。どう違うの?というのはまた別の機会に。

ともあれ、碁石山には海上安全の仏様である浪切不動明王の他に、海上安全の神様である金毘羅大権現もお奉りされています。海上安全を司る神仏が一度にお参りできる場所として信仰を集めてきました。

なので、亥年は碁石山にとって関わりの深い場所になるわけです。

参道の途中にある嘉永4年(1851)亥年という鳥居も、168年前のすなわち14回前の亥年に作られたという縁もあります。

近年、海を渡って小豆島に増えた猪も、碁石山では日常的に見かけますし、年明けには山頂付近から、岩を転がして玉垣を割ってしまう、という事件を発生させたほど馴染み深い動物です。
いろんな角度から縁がある猪の1年間に起こることは、猪と縁が深い碁石山の仏様にお頼み申せばよいのではないかと思います。

洞雲山の桜

最近の小豆島は、珍しく雨ばかりで、晴れ間が少なく、なかなか気温が上昇しないので、碁石山にある桜の開花はまだまだです。
なので、本坊常光寺と洞雲山の桜写真を載せておきます。春よ来い来い。

慈空拝



仏さまのわかりやすい御利益とは

今夏はとても暑く、週末ごとに台風が来たので、歩き遍路にしても、車遍路にしても、船が止まったり、飛行機が飛ばなかったり、で小豆島に来る参拝者は激減しました。

 

なので、たまに来る観光ついでの来訪者の印象しかないのですが、来られる人来られる人、とても似ていてビックリしました。

 

「朱印はできますか?」

 

「ここの仏様は何に効果がありますか?」

 

この2つの質問が鉄板で、これだけ聞いて用を済ませばサッと退出です。

 

前者は朱印ブームのせいでしょう。何はなくともお寺に行くと手書きの朱印をしてもらえる、とA5サイズくらいのMy朱印帳をカバンに忍ばせている人はとても大勢いらっしゃいました。
後者については、

 

「ここは浪切不動明王様がご本尊なので、海上安全に御利益がありますよ」

 

と答えていました。

 

そうすると、ふーん、そうなんだ、とわかった風な感じで、そこで話は終わり、皆さん出て行かれます。
それに違和感が拭えなかったので、途中から答え方を変えました。

 

「ここの仏様は浪切不動明王さまなので、海上安全の御利益があるのですが・・・」

 

「仏様は人間の尺度で、これが得意でこれが不得手というのを計れるような存在ではありません。日本人はスペシャリストが好きなので、これに特化して一点突破しているようなのが好きだから、海上安全に関しては誰にも負けない!みたいな人が好きなのはわかります。事実オールマイティで、仏のヒエラルキーの頂点に立つ大日如来さまの人気は乏しく、ご本尊として奉られているお寺もそんなに多くない。薬が付くから病気に強いであろう薬師如来、子授けの子安観音、水子の水子地蔵、シンプルな即効性を求めがち。でも、海上安全オタクだから、恋愛成就は苦手とか安産や就職は専門外で他行っとくれ。みたいな人間的なモノを想像するのは間違いです。そんな得手不得手がはっきりしている人間っぽい御方なら、どこかの人間にお願いしたらいい。浪切不動明王は、元来不動明王さまでもあるので、降りかかる厄災や願いごとの障壁となるものに睨みを利かせ、それらから祈願者を護ってくれるという存在でもあり、どんな願いごとを祈願しても、差し障りはありません。ついでに言うと、神仏はさまざまなアプローチで、貴方の願いを人間の努力や注意を超越した形で、見護ってくれるので、ここの仏様にお願いしたから、あっちのお寺では祈祷しない方がいいよね、とか、神様と喧嘩する、なんてのは無いです※。そんな人間味溢れる御方なら仏様とは呼ばれませんので心配しなくていいですよ」

 

とか、なんとか。

 

この坊主話長いなー、と途中から「いや、そういうこと聞きたかったんじゃなくて、薬の効用を知りたいだけ」みたいな怪訝な顔をされる人もいましたが、安易にわかった風になって欲しくないな、という想いがあります。

 

私は坊主なので、自分の宗教観とか、お遍路に対する心構えとか、お寺を参拝するときのアレコレについて、自分なりの答えを持っていますが、それは常に定まったものではなく、坊主になる前、修行中、坊主になった後、その後も刻々と変化しています。
常に考えて、こうかな、こうじゃないか、それが経験によって上書きされ、なかなか着地しません。
ですが、「これが答え」と結論づけて以後思考停止状態になるのが1番良くないと、修業時代に嫌と言うほど言われました。

 

「まだ、そんなもんか」

 

すごく上から目線で師僧に言われたのが、今は仏様の尊顔をのぞき込むと言われます。

 

そんな答えの出ない、仏とは、利益とは、という問いを、短絡的な一言で結論づけて欲しくない、ということです。

 

「碁石山の坊主が「海上安全」って言ってたから俺らには関係ないわ」

 

で、情報をストップするのはもったいない。
たとえ私がそう言ったとしても、いや、そんな安易なもんじゃないのではないか、と疑って浪切不動明王さまを探求して欲しいと思います。

その時、参拝した自分の調子や、持ち時間、天候によって、見え方・感じ方はいくらでも変わります。

見切ってしまえば、自分にとって意味ある場所かどうかも気づくことはありません。

 

「この御守がいいね」とテレビが言ったからあの寺はパワースポット

 

行ったことないけど、やたら大混雑しているお寺に違和感を覚える今日この頃です。

碁石山から見える海。いつも凪いで道ができています。

※ 宗教の教義の中には、他の神を信仰するな、とか浮気をするな、と厳しい戒律を掲げて、排他的なものはたくさんあるのは事実です。ですが、信じる者以外も救われます、が仏教の教えなので、そんな了見の狭い教えだと、ついて行けないなと思います。

【法話】坊主として気をつけている3つの誓い その3

高野山で尊敬する師僧に教えられたこと。

在家から仏門に入り感じたこと。

日々お遍路さん、檀家さんと接して感じたこと。

 

それらを自分の中に落とし込んで3つの誓い、即ち自分なりの「戒」を持っています。

 

  1. 仏様の前に立たない
  2. 仏様にしわ寄せをしない
  3. 暇な人でいる

最後の3つめについて書きます。


暇な人でいる


なんてことはない。言葉の通り、暇な人でいる、ということです。

しかし、仕事を一生懸命やればやるほど、暇な人ではなくなります。

能力がある人であれば尚更。周りが放っておきません。何かしら頼み事をされ、役職を与えられ、気づけば自分の時間がほとんどありません。

お坊さんも同じです。

お寺のことを一生懸命やり、檀務を丁寧にし、信者さんとも懇ろのお付き合いをすれば、とても忙しくなります。

加えて本山の役職を受け、泊まりがけで高野山や京都に出向いて、自坊以外の宗派全体或いは仏教興隆のために身を粉にして頑張る。付き合いの宴席に行く機会も増えるでしょう。

 

その結果・・・

 

「おじゅっさん(小豆島でのお坊さんの呼び名)、忙しそうにしてるなぁ。」

「いつ行っても寺におらんな・・・」

「相談したいことあるんやけどな・・・」

と言われます。

「忙しそう」は勲章ではありません。皮肉です。

おじゅっさんなら「頼りになる」「会えてよかった」「このお寺でよかった」と言われたいものです。

そのためにはある程度「暇な人である」必要があります。

 

この考えに至る大きな理由が2つあります。

 

まず1つは、修業時代に尊敬する師僧に質問したことがありました。

「あなたが理想とするお寺はどんなお寺ですか?」

「しっかり行法(朝夕の勤行など仏前で行う祈り)ができて、本を読んで勉強する自分の時間がちゃんとあるような暇な寺かな。」

そんなもったいない。貴方の能力ならもっと世のため人のために活かせるはずなのに。と思ったものですが、

現実には暇な寺は食べていけません。

暇じゃダメだと、一生懸命稼ぎを作ります。

場合によっては、兼業してお寺を維持します。

そうなると、ウィークデーは日中ずっと仕事で、土日はお寺の仕事、なんていう大忙しの状態になります。

その中で自分の時間を確保しようと思ったら、家族や子供との時間もあるので、仏様をほったらかしにすることになるでしょう。

食べていくくらいの収入を確保しつつ、自分の時間もしっかり確保する、というのはとても難しいことで、真に能力の高い人だからできる技なのかな、と思いました。

言い換えれば、「暇な自分をつくる」力強い信念を持って絶えず行動していくことで、よっぽど時間の密度が濃くなります。

 

また、暇を暇のまま「それでもいい」と思うためには、よほど自信や根拠がないとできない、と思います。

こんなに暇だったら将来大丈夫かな、焦って空き時間を埋めたくなります。貧乏暇無しです。

動き回ってみたものの、稼ぐどころか余計な出費をつくり、挙げ句、檀家や信者の信頼はまるで上がってない、という悪循環になります。

しかし、動いていると、やるだけやった、という自己充足感は満たされます。こんなに頑張って、ダメなら諦めもつく、といった具合です。

そういう風潮に流されることなく、自分を律し、成功や名声という執着から解き放たれた状態が「暇でいい」とする達観なのではないでしょうか。

これくらいで良し、と思って幸せを感じる「足るを知る」境地です。

 

修業時代に、「お前は何者でもない」「執着が身を滅ぼす」と言われました。

人間誰しも、自分の肩書きにこだわったり、自分はもっとできる、もっと名声を得て、もっと賞賛されたい、もっと承認されたい、もっと所有したい、もっともっと・・・という妄想にとらわれています。

その要求に際限はありません。

 

その我欲に打ち勝つのはとても難しいことです。私も百戦百敗に近いくらい負け続けています。

気がつかないうちに沸々を湧き上がる執着心。

それに囚われた末に、浪費と散財を繰り返す。「忙しい」と家族に予防線を張り、子供に「近寄るな!」と怒る。

みっともないったらありゃしない。

これくらいで良し、と思って満足する「足ること」を知らなければ人は幸せを感じることはできません。

それに囚われないためにも、自分自身の戒として、真ん中に置いておかなければならないと思います。

 

暇なので、いつも”ソコニ居リマス”を表現したかったアイコン。

【法話】坊主として気をつけている3つの誓い その2

高野山で尊敬する師僧に教えられたこと。

在家から仏門に入り感じたこと。

日々お遍路さん、檀家さんと接して感じたこと。

 

それらを自分の中に落とし込んで3つの誓い、即ち自分なりの「戒」を持っています。

 

  1. 仏様の前に立たない
  2. 仏様にしわ寄せをしない
  3. 暇な人でいる

今回はその2つめについて書きます。

仏様にしわ寄せをしない

これは、高野山に居るときにきつーく師僧に言われた言葉です。

その方は、「堕落した坊主ほど、この世の中に要らないものはない」とも言ってました。

そう言い切るためには己を律して、尊敬される振る舞いをしなければなりません。そう言い切る人に出会えただけでも坊主になった甲斐があったというものです。

さて、

「仏様にしわ寄せをしない」というのは、自分のことを優先して、仏様を蔑ろにする、ということです。

私が言われたシチュエーションを再現します。

高野山で修行している間、時間に関してはとてもシビアでした。1分で用意しろ、3分でかたづけろ、5分後に自室(寮の3階)で衣に着替えて戻って来い、自由時間はほとんど無く、トイレをゆっくりできることは夜くらいで、常に衣を振り乱しダッシュしているか、小走りでした。

そんな中で、自分が行法[ぎょうぼう](密教の修行をすること)する檀の仏具をピカピカに磨いておかねばなりません。

「仏具は信心を表す」

とされ、仏具が汚れていると、心も汚れている、と言われました。

真鍮でできた蝋燭立てや三鈷杵や金剛盤などの仏具は、2〜3日経てば、輝きを失ってきます。とは言え、坊さんでない人、高野山の修行僧でなければ、わからないくらいの微妙な劣化なんですが、修行道場の閉鎖された空間においては、「かなり汚れている=さぼっている」と思わせるものがありました。

そして言われるわけです。

「お前の信心はそんなものか!お前そんなんでええんか!」

殺し文句です。衆人環視の環境でそう言われるのはとても恥ずかしかった。

だから、時間をやりくりして仏具を磨くわけです。四度加行[しどけぎょう]という修行期間中は朝の行法が4時からでしたので、3時に起きて、磨くわけです。朝早いのは辛いけれど、夜は9時消灯厳守だったので、自由時間は朝しかありません。

夜9時に寝るなら朝3時に起きても、6時間寝てるから十分やん。と思うかもしれませんが、まぁ9時に寝ることはありませんし、休日があるわけでもないので、寝だめすることも適わず、ピカピカの仏具を維持するのは体力勝負。精神力との闘い。自分では限界と思えるまで頑張るのですが、身体も心も付いてきません。

自分は限界まで頑張った。その姿は仏様も見て下さっている。許してくれるよ。慈愛に満ち溢れた仏様なら。

と思います。

思わせてくれよ、と願います。

それで実際、天罰が下るわけではありません。仏様はとても優しい御方です。

しかし、自分で許す許されるを決めてしまうと、どこまででもゆるく、易きに流れてしまいます。

仏具を磨けていないばかりか、行法の後にある朝勤行や夕勤行でもウトウト居眠りをし出します。

自分の中で甘えを許せば歯止めが利きません。

仏様が許してくれるなら何でもアリです。

そして

「仏様にしわ寄せをするな。堕落した坊主になるな!」

怒られました。

磨く前の花瓶。あっという間に光沢を失うのは試されているのかと思います。

 


高野山の修行期間が終わって、娑婆に戻ってくると・・・

毎日なんだかんだ忙しい。時間が無い。お金が無い。身体の調子が悪い。子供が居るから。〇〇でしょうがない。

やらない理由はいつでもいくらでもあります。

だから、朝勤行をしなくてもいい。

だから、お寺を留守にしても仕方がない。

だから、仏具は磨く時間はない。

物事に優先順位をつけていくと、仏様のことを後回しにするのが、手っ取り早い。

仏様にしわ寄せをしても、仏様は怒らないし、お金も請求しないし、他人に文句も言われない。

一番後回しにしやすいんです。

 

しかし、そこがお坊さんと一般人の分かれ目だな、とも思います。

 

誤解を恐れず書くと、お坊さんって、仕事ではなく、ライフスタイルだと思います。

自分に戒をもって、それに従って、背筋を伸ばして生きる人がお坊さん。

葬儀をしたり、法事をしたりするのは、僧侶という職業で、それ自体は単なる仕事です。

けれど、生き方としてのお坊さんは、尊敬されるので、敬語を使われ、大切に扱われる。

お坊さんだから、葬儀をしてもらいたい。法事に来て話をして欲しい。となります。

 

仏様にしわ寄せをするか、しないか、それを決めるのは自分だけです。

言い換えれば、自分に甘いか?弱い自分に負ける人か?覚悟が無い奴か?が問われていると思います。

仏様にしわ寄せをしない。

この言葉は、修行道場を卒業してから、年々自分の中で大きくなってます。

人間、喉元過ぎればなんとやら。

修行を終えた1年目、2年目は、そんなことを思い出すまでもなく、やる気に満ちあふれて、仏様にために一生懸命です。

それが、3年、5年、8年と経ってくると、自然とやる気が漲ってくるなんてことはありません。自分で気にしておかないと、心に留めておかないと忘れてしまいます。

周りのお寺さんを見渡しても、「当時はそんなんだったなー」と修行期間は若い頃の一瞬の突風だったかのようで、そんな特別期間はあくまで修行の間だけの話。といった風です。

 

せっかく選んで飛び込んだ坊主の世界。

ただの仕事で終わらせるには失礼だし、もったいないとしみじみ思います。

綺麗なお花を入れておくのも大事ですね。

【法話】坊主として気をつけている3つの誓い その1

高野山で尊敬する師僧に教えられたこと。

在家から仏門に入り感じたこと。

日々お遍路さん、檀家さんと接して感じたこと。

 

それらを自分の中に落とし込んで3つの誓い、即ち自分なりの「戒」を持っています。

サラッと3つ書きますね。

 

  1. 仏様の前に立たない
  2. 仏様にしわ寄せをしない
  3. 暇な人でいる

3回のエントリーに分けて1つずつ順に書いていきたいと思います。

1.仏様の前に立たない

物理的に仏様の前に、直立不動で立つな、ということではありません。

仏の前に立つとは、「この仏様に会いたければ、このお寺に参りたければ、俺の機嫌を損ねるな」という考えを持つことです。

仏様のことを考えるよりも、自分の考えを優先する、ということです。

これでは、仏様とお坊さんの主従関係が逆転してしまいます。

常に自分のフィルターを通さないと気が済まない。仏様あるいはお寺を、私物化するお坊さんってよくお見かけします。

お寺で生まれ育って、そこが自分の家だという認識が強い人は、お寺は自分もしくは家族の所有物だという考えを持ってしまうことがあります。

住職はお寺という宗教法人の代表ですが、法人なので、あくまでお寺は法人のものです。

法人の役員には、檀家総代や寺族、法類(同宗・同派に属し,密接な関係にある寺院または僧侶)といった人がいます。

その意志や総意で決まったことならともかく、

個人的に気に食わない奴はお寺の敷居を跨がせない、とか。

自分本位の理由によって参拝方法や参拝時間を制限する、とか。

歴代の人たちが大事にしてきたものを蔑ろにしたり、檀家さん達の要望を無視したり、参拝者の便利を考えなかったり。

ただし、防犯上のことや、お寺が存続していくためにコストや労力と天秤にかけて、やむを得ない場合は、仕方ありません。

たとえば・・・

東京の大都会のど真ん中で、いつも開放されたお寺であれば、セキュリティ上、施錠したり、セコムを入れたり、参拝方法に制約が必要でしょう。

国宝や重要文化財を抱える京都のお寺であれば、維持費もかかるので、拝観料や拝観時間の制限が欠かせませんね。

でも、たいていは大した理由もなく、その時の住職やお坊さんの考え方一つでダメだったり、よかったり、するんです。


人には相性がありますので、私も苦手な人や、理解しにくい人が来た場合、同じ空間に居たくなくなることがあります。

例えば、まったく無言で、気づいた時には、お堂の中を熱心に写真撮影している人がおりました。

声をかけると無視して、自分の世界に入っている。

撮影の許可なく、ご本尊にもカメラを向け、挙げ句フラッシュを焚いてパシャパシャ。

流石に、それはダメだと言って、気まずくなったその人はそそくさと出て行きました。

おそらく、私の表情はこわばり、嫌悪感がプンプン出ていたと思います。

私自身、写真を撮るのは好きなので、カメラを持ってお寺に出かけ、よく撮影します。しかし、撮影禁止の貼り紙がしてあれば、コッソリ隠し撮りしたりはしません。

理由が書いてない場合でも

「撮影してインターネットなどに公開されてしまうと、直接足を運んで来てもらう価値が下がる」と考えているからだろうと想像します。あるいは「貴重なものが、大したセキュリティなく置かれている様を見て、盗人がやってくるのを防ぐ」ためと考えます。

実際、テレビの『開運!なんでも鑑定団』で放映されたばかりに盗難にあった美術館があったり、小豆島の貴重な草花も、愛好者がブログに載せたばっかりに、業者が根こそぎ採っていった、という前例がありました。

私が、上記のカメラマンに苦言を呈した理由は、お寺の雰囲気は、そのお寺を作った人、護持してきた人によって大切に保たれ、空間デザインやライティングも含めて、その仏様の威厳を醸している。そこにまったく配慮せず、とりあえず俺がそこに行った!が優先されてしまうとマイナスの広報になると考えるからです。

坊主になる前のインターネット黎明期に、碁石山を参拝された方のブログをいくつか拝見しましたが、どれもフラッシュを煌々とご本尊に浴びせ、場の雰囲気をまったく感じさせないケバケバしい場所として紹介されていました。

勘違いして欲しくないのは、写真を撮られること自体は良いんです。紹介してくれたら有り難いです。いい広報になります。写真の上手い下手も問いません。

写真では伝わりにくい静謐で荘厳な空間

だからお願いしているのは、「ご本尊にむけてフラッシュは焚かないでください」「他に参拝されている方がいたら配慮してください」ということだけです。

それを伝える前に、自分の意志が赴くままに、環境を考慮しない人は、他にお参りしている人がいたら、いい被写体があったと嬉々としてシャッターボタンを押すでしょう。

それを許していたら、お寺は気持ちのいい空間として、参拝する魅力を失ってしまいます。


こんなこともありました。

岡山の某サッカークラブの選手が合宿で小豆島88ヶ所の霊場を巡っていました。トレーニングも兼ねてジャージやユニフォームを着て、走ってやってきました。その様子を撮影しようとカメラクルーも同行していました。

ワイワイガヤガヤとお堂に入ってきて、仏様に手を合わせるでもなく、「疲れたー」とか「ここ何?洞窟?」みたいな会話をして、その間カメラは回っています。しばらく見てましたが、こちらの存在に気づいても、居ない風です。

そのまま出ていこうとしたので、来た理由と、どうしてカメラを回しているのかを問い、碁石山の説明を簡単にしました。

おそらく彼らにはとても面倒くさい坊主に思えたでしょう。誰も居なければ好きに振る舞えたのに、なんだアイツ、そんな気配も感じました。

いくつかの集団がバラバラに来たので、選手の中にはご本尊の前で手を合わせて行く人もいました。こちらに話しかけて解説を求める人もいました。

そんな人ばかりだったら、私も煙たがられなかったと思いますし、来てくれて有り難いとしか思えませんので、「ようお参りです。お茶のお接待どうぞ〜」くらいのサービス精神を発揮したと思いますが、ファーストインプレッションはお互いに良くなかったです。


過去に碁石山の堂守をしていた方で、よくお遍路さんと喧嘩するお坊さんがいました。

「あの人は苦手だった」「ここで護摩を焚くことはなかった」と、お参りされている方から直接言われることがありました。価値観を押しつける人、人を選ぶ人、それゆえに苦言と同様に「あの人はよかった」「こんなことを言ってくれた」との賛辞もありました。

参拝されるお遍路さんにも、当然偏りがあって、言葉のキツい人や、信仰の形が独特な人、狡猾な人、バックマージンを求める人、さまざまいらっしゃいます。どちらか一方が悪いなんてことはこの世の中にありません。ですが、いかなる理由があろうとも、そのお寺に足が向かない理由が人であってはならないと思います。

仏様の前に立つ人には、何事においても自分本位の性根が存在します。それは、坊主としてだけでなく、人としてどうなのか、にもつながる大きな問題です。そこをなおざりにして、喧嘩両成敗にしてはならないと考えます。


ただ、それも私の独自ルールで、参拝方法の押しつけだと言われれば、そうかもしれません。

なので他人に押しつけることではなく、自分への戒として保っておくことが大切だと考えています。

忘れてはいけないことは、自分は仏様に使われる身で、そのお下がりで食べさせてもらっているということ。

その事務局あるいはマネージャーのような存在が、意志を持ち、いただいた崇敬の念を上へ通すことなく、自分フィルターで選別して、自己満足を優先してはならない、ということ。

たまたま、縁あって、この時代に、この仏様の守をさせてもらっているだけで、自分の所有物でもなければ、その役目が自分でなくても構わないことを忘れてはいけない。

そんな権限は私にはまったくないのです。

お坊さんはどんな若輩者であっても、敬語を使われたり、尊敬を集めることがあるので、ふとすると自分の役割を忘れてしまいそうになります。

かく言う私も、気づけば仏様の前に立とうとしてしまいます。在家(一般の家)で育ち、ついこないだまで参拝する側にいたのに。

環境は人を変えます。

だから、自分自身の戒めとして、特別意識して、携えておかなければならない大事な誓いです。

 

2018-02-12 | ブログ, 法話, 護摩祈祷

【法話】お坊さんが解説する「祈祷」の役割

未来の住職塾という超党派のお坊さんの集まりに参加した、というのを先日書きました。

未来の住職塾を受講しました(2018年1月19日)

 

そこで、浄土真宗のお坊さんから次のような質問されました。

「”祈祷”って何なの?どういう意味があるの?」

お坊さんが、お坊さんに向かって質問する内容として、一般の方からすると「へっ?」と思うような質問かもしれません。

でも、実は特別なことではないのです。

まず、この記事を書いている私は、真言宗の僧侶で、真言宗では「護摩祈祷」をよく行います。

見たことがある人が多いと思いますが、「護摩」は、火を焚いて祈る行為です。

もっと詳しく書くと、不動明王という仏様の前で、さまざまな願い事を護摩木に書いて、それを火の中にくべて燃やし、仏様に聞いてもらい、願い事が達成されるように祈る修法です。

さまざまな願い事というのは、「家内安全」「身体健康」「病気平癒」「入試合格」「安産成就」「厄難消滅」といった祈願から「先祖供養」「水子供養」といった死者を弔う追善まで、本当にさまざまです。

私の場合は、ご本尊が浪切不動明王さま、ということで、祈祷=護摩になりますが、それ以外にも「祈祷」の修法はたくさんあります。

他の宗派のことは詳しくは存じませんが、天台宗も真言宗と同じ密教の要素を取り入れた祈祷を行います。日蓮宗は、密教系とは毛色が異なりますが、木剣という法具をカチカチ鳴らして行う祈祷が有名ですね。

しかし、浄土真宗ではまったく「祈祷」をしません。そして、祈祷を行わないことが仏教の開祖お釈迦様の教えに忠実だとされます。

事実、お釈迦様の教えは、神秘性が全くなく、「原因があるから結果がある」(因果応報)というシンプルな教えです。そこには、見えざる仏の手や奇跡といったものは皆無です。(釈迦仏教については後日詳しく書きたいと思います)

仏教=祈祷ではないので、浄土真宗のお坊さんからすれば、祈祷のようないかがわしい詐欺行為をするのは金儲け以外の何ものでも無い。と思っている人がおそらく多くて、宗派の教義としても、そう習うのだろうと思います。

 

極端な事例を出しますと・・・

たとえば、大学の合格祈願をしました。すると後は寝ていても、試験会場に仏様が行ってくれて、代わりに100点をとってくれて合格できる。

まぁ、そんなわけありませんよね。

実際には、合格祈願の祈祷をしました。しかし不合格でした。ということが往々にして起こります。

すると、「詐欺だ!」「あそこの仏様は御利益ゼロ!」「全然パワーが無いから行く価値なし!!」と言う人が出てきます。

こうした場合の祈祷の意味を考えてみましょう。


祈祷は何を与えてくれるものなのか?

入試の場合、合格するのは、試験を受ける人です。寝ていたのに試験を受けて合格していた、というような奇跡、あるいは神秘性は、そもそも仏教にはありません。祈祷する人でさえ可能性が0%だと思っていることを祈祷しても意味はないのです。

大学入試のような人生を左右する岐路に立ったとき、私たちは往々にして、不安になるものです。「落ちる」とか「滑る」とか禁句になり、それを見守る家族まで、緊張した空気を醸してしまいます。

そういうプレッシャーをはね除けるために、努力はもちろん、できることは全部やって、試験に臨みたい、と誰もが思います。

神頼み・仏頼みもできることの一つです。

その試験を受ける人が、護摩祈祷を通して「よーーし!仏様にしっかりお願いしたし、後は自分がやるだけ!」と前向きな気持ちになり、不安を取り除いて安心を得られれば、試験において努力の成果を存分に発揮できるでしょう。これまで何人もの人がおかげを受けた、と言われるお寺やご本尊の評判が、力強い後押しになる場合もあります。

結果、願いごとが成就することにつながります。

もし、問題を見て、「げっ!予想と違った!」と思うだけで、頭が真っ白になり、できるものもできなくなるのが人間です。そして、目の前の現実を直視できず、「あの時、あぁしてたら良かった」と、今この瞬間にはまったく必要のない妄想にとらわれて、集中できなくなってしまいます。

イレギュラーなことが起こっても、自分は「幸運なんだ!」「仏様に護られているんだ!」とぶれずに強く思い続けられる拠り所があれば、実力が発揮できないことの方が稀です。

その拠り所となるのが、仏様に祈祷する、ということになります。

病気にしても、安産成就にしても、商売繁昌にしても、同じ考え方です。

「仏さまにしっかりお願いできたから、後は自分が頑張るだけ!」

簡単に書きましたが、そう思うことができるのは、実はよっぽど難しいことなんです。

大事なことなので、詳しく書きますね。


前提として、人は他人の考え方や思想を直接変えることはできません。

心が変化するには、その人自身の納得感や充足感が必要です。

そこに作用しているのは、「スッキリした」「気持ち良かった」という体験を通して感じた感覚が、まずあるでしょう。

加えて、碁石山が祈祷所となった400年以上昔から、何万人という人が祈祷し、おかげを受けてきた、という実績であったり。伝統仏教に対する個人個人の想いであったり。信頼している人や、一緒に行った人が、行って良かったと心から満足している様子だったり。さまざまです。

もし、護摩祈祷を通して得られる心の変化を、何か別の作業で代替できるなら、護摩祈祷は今日まで残っていないでしょうし、私自身、護摩祈祷を勧めることはしません。

テクノロジーがいくら進歩しても、デジタル機器でバーチャルな体験ができようとも、ここで得られる何かは、ここでしか得られないものだろう、と嘘偽りなく思うわけです。

そういう意味で、祈祷が与えてくれる最大の恩恵は「安心」です。

 

※ただし、護摩祈祷にはいくつか種類があって、上で説明したのは、息災法と呼ばれる護摩です。他に、増益・降伏・敬愛・鉤召といった種類の護摩もあり、「怨敵や魔障を退散させる」や「諸尊・善神を呼び寄せる」、といった特殊な祈祷法もあります。しかし、それらを修行で習うことはありませんでしたので、私は祈祷することができませんし、その必要もないだろうと思っています。

祈祷の恩恵を受けたことが無い人が祈祷に頼る必要はあるのか?

強固な意志を持って、自分を拠り所にして、自分を信じ、ぶれずに物事をやり遂げる人もいます。

生まれてこの方、神も仏も信じないし、頼ったこともない、俺は俺の実力でここまでやってきた!そう想う人は案外たくさん居ます。家でも学校でも仏教や宗教に触れる機会が乏しい今の時代ではこれからも増えていくでしょう。

それはそれで結構なことです。何も否定もしませんし、その自信が自分を支え、実力を発揮し、自らの幸せと周りの幸せを創出するものであれば、誰にも咎められることでもありません。

祈祷はその人にとって必要がない行為といえます。

ただし、物事が順風満帆で、幸運が重なったとしても、なぜか不安を抱え、心が渇いた状態にあるのが人間というものです。

傍から見たら幸せそのものなのに、本人の気持ちは真逆だったり。まだ起こっていない先のことに恐れを抱き、ネガティブな妄想にとらわれ、十分うまくいったことに後悔して・・・どうしてそんな心理に陥るのでしょう?

将来を想像して不安がるのは人の性とも言えます。

その悲観的な妄想を抱えている生物だから、人は絶滅しないで今日まで生きてこられたとも言えます。

と、同時に、その悲観的な妄想を抱えているが故に、有史以来、人間は宗教と共に生きてきました。

時代が変われど、国が違えど、民族が異なろうが、人は宗教と共に在りました。

 

あらゆる物事が順調にいっている人でも、

ある日突然、事故にあって命を落とす。

ある日突然、天災に巻き込まれて命を落とす。

ある日突然、予期せぬ病気にかかって身体が思うように動かなくなる。

そういう理不尽が、生きていると往々にして起こります。

どうしたら防げたのか?どこに不平を申し立てればいいのか?どうして自分に?

その問いに人間は答えることができません。

だから、人は宗教を必要としました。

だから、仏教は信仰されてきました。

淘汰される機会はいくらでもあったはずですが、それでも引き継いで、残されて、今日に至ります。

 

これまで、祈祷に頼ってこなかった人、神仏を必要としなかった人に、もし必要と思える不測の事態が起こったら、祈祷が役にたてる時が来るかもしれません。

いや、絶対に必要ない!と誓う人に、無理強いするつもりはありません。

しかし、信じてきたものが答えを出してくれなかった時に、人は脆いものです。自分で抱え込んで、心を患ったり、他人に厄災を転嫁したり、自死を選んでしまうようなことが残念ながら起こってしまいます。

非常にもどかしくおもいますが、祈祷したからといって他人を操ったり、洗脳したりすることはできません。その時、できることは祈祷ではなく、寄り添うことです。

 

個人的に思うことですが、仏様は、いつでもそこにあって、都合のいいときに、都合のいいように利用させていただくほどの懐の深さがあるように思います。

厳しいと言われる仏様もいらっしゃいますが、それは人の状態に合わせて、厳しくもなるし、優しくもなるのだろうと思います。

だから、人間でありがちな、「今まで蔑ろにしていたくせに、どの面下げてやってきた」みたいな扱いは、仏様はされません。

そんな人間の延長で、同じ傾向の想像のつくような存在であれば、寧ろ人間でいいわけです。仏様の存在理由がありません。

仏様の威を借りて、己を神格化して教祖的に振る舞う人や、仏教的なものはあるかもしれませんが、そういうものは、その個人の範疇を超える出来事に対応できないので早晩廃れるでしょう。

 

熟練のお遍路さんを見ていると、みなさん仏様との付き合い方がさまざまで面白いと思います。

それぞれの、さまざまな人生の中で、固有の経験があり、それに照らし合わせて信仰の仕方があり、祈祷の役割があります。

どれが正解で、どれが間違いだと、断定できるものではありません。

祈祷に、頼りたいと思ったら頼る。必要無いと思えばしない。

それでいいと思います。

よく言われる「こっちで祈祷したから、浮気はしてはいけない」は、そう思って、後ろめたい気持ちになるくらいなら、祈祷の本来の役割を果たせないので、しない方が良いと思います。

ただ、人間の延長で仏様をとらえすぎない方がいいとは思います。仏様がそれほど嫉妬深く、偏狭な人間によく似た習性の存在であれば、もはや人間でいいわけです。

 

お釈迦さまがおっしゃられた「諸行無常」と「盛者必衰」という真理。

世の中のものは常に変化し(諸行無常)、良いときもあれば悪いときもある(盛者必衰)を考えれば、人の心が変化することは自然であるし、状況によっては祈祷に頼る場合があってもいいと思います。

個人の心理は移ろいやすく、不安定なものだから、揺るぎないもの(仏)に頼りたくなるのが人間です。


祈祷される対象が知らなくても、祈祷する意味はあるのか?

孫の入試合格を祖母が祈祷する。

娘夫婦の健康を父親が祈祷する。

北朝鮮情勢がきな臭いので世界平和を祈祷する。

 

祈祷する人と、祈祷対象が異なる場合、祈祷の役割はどのようなものでしょう。

仏教では「縁」というものを大切にします。

縁は仏教のエッセンスとも言えます。

この世の中で、何ともつながっていない単独で存在するモノはありません

すべてのモノは、何かしらと結びついています。

たとえば、石があります。

その石は、大きな岩が削れた破片の一つで、長年波に打たれ、脆くなったとところに台風が来て、海に沈み、流され、魚が運び、浜に打ち上げられたところを、カラスが咥えて飛んできて、そこに在る。

たとえば、お寺で飼っている犬がいます。

その犬は、捨て犬でしたが母犬がいて父犬がいます。雨の日に近所の子に拾われて、可哀想と思う住職夫婦に飼われ、毎日散歩に連れられ、食事を提供され、躾され、犬小屋を設置され、ペットショップで買ってきた首輪と紐につながれ、たくさんの人に可愛がられ常光寺の犬として認知されています。

物質でも生物でも、あらゆるものは、何かしらとの関係性の上に存在しています。

それを縁といいます。

だから、何かが動けば、何かに影響を与えます。ただそこに在るだけでも影響し合います。

 

よく言われる先祖の数

私たちには必ず両親がいて、親それぞれにも祖父母がいて、10代遡れば2046人、20代遡れば209万人7150人、その先祖の1人でも欠ければ、私たちはこの世に存在しません。

そういう関係性=縁の元に私たちは存在しています。

また、「人は、あなたに出会って私になる」という言葉もあります。

私を私たらしめているのは、私ではなく、あなた。私という人格も存在も、あなた(を含む外部)との関係性の中で存在する、という縁の言葉です。

 

話を戻しますと、

誰かが誰かのために祈祷を行う、それは巡り巡ってその人にも作用する。

祖母が孫のために祈祷したことが、祖母から親に伝わり、親から孫に伝わり、直接的に「安心」を分け合う場合もあれば、

親が子のためを想って祈ることで、祈った親に「安心」が生まれ、祈祷した子は知らずとも、間接的に好影響を及ぼすこともあります。

そうしたわかりやすい例でなくても、

ただひたすら世界平和を祈祷する間、その人自身が誰も傷つけず、モノを壊さない時間を過ごすことで、世界平和に貢献していることもあります。

よその国の施政者の心を直接操作することはできない、しかし、戦争は相手がないと始まらないものなので、一方にその気がなければ起こりようのないものです。

それをお花畑の考え方、と評価する人もいるかもしれません。しかし、究極の正論に目を背けているだけです。

誰かが誰かのためを想って祈る、そうした尊い行為、時間はを否定する要素は何もありません。

けっして、マイナスを生み出す行為ではないのです。

最後に、私の好きな縁の話をします。

ある人が私を騙して100円を盗みました。私は誰が盗んだのかを疑い、別の誰かを騙して100円取り返しました。すると獲られた人も、別の誰かを騙して盗む負の連鎖が起こりました。たかが100円ですが、その連鎖は地球を一周して、世界中で騙し合いが起こり、盗みが横行する不穏な世の中になりました。

逆に、

ある人が私に100円くれました。私は少し幸せな気持ちになり、別の機会に友達に100円あげました。その友達も嬉しくなって、そのまた友達に100円あげました。たかが100円ですが、その連鎖は地球を一周して、世界中の人が少しハッピーで、他人を大切にし、自分のものを分け与える気持ちをもつ世の中になりました。

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