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2018-02-12

【法話】お坊さんが解説する「祈祷」の役割

未来の住職塾という超党派のお坊さんの集まりに参加した、というのを先日書きました。

未来の住職塾を受講しました(2018年1月19日)

 

そこで、浄土真宗のお坊さんから次のような質問されました。

「”祈祷”って何なの?どういう意味があるの?」

お坊さんが、お坊さんに向かって質問する内容として、一般の方からすると「へっ?」と思うような質問かもしれません。

でも、実は特別なことではないのです。

まず、この記事を書いている私は、真言宗の僧侶で、真言宗では「護摩祈祷」をよく行います。

見たことがある人が多いと思いますが、「護摩」は、火を焚いて祈る行為です。

もっと詳しく書くと、不動明王という仏様の前で、さまざまな願い事を護摩木に書いて、それを火の中にくべて燃やし、仏様に聞いてもらい、願い事が達成されるように祈る修法です。

さまざまな願い事というのは、「家内安全」「身体健康」「病気平癒」「入試合格」「安産成就」「厄難消滅」といった祈願から「先祖供養」「水子供養」といった死者を弔う追善まで、本当にさまざまです。

私の場合は、ご本尊が浪切不動明王さま、ということで、祈祷=護摩になりますが、それ以外にも「祈祷」の修法はたくさんあります。

他の宗派のことは詳しくは存じませんが、天台宗も真言宗と同じ密教の要素を取り入れた祈祷を行います。日蓮宗は、密教系とは毛色が異なりますが、木剣という法具をカチカチ鳴らして行う祈祷が有名ですね。

しかし、浄土真宗ではまったく「祈祷」をしません。そして、祈祷を行わないことが仏教の開祖お釈迦様の教えに忠実だとされます。

事実、お釈迦様の教えは、神秘性が全くなく、「原因があるから結果がある」(因果応報)というシンプルな教えです。そこには、見えざる仏の手や奇跡といったものは皆無です。(釈迦仏教については後日詳しく書きたいと思います)

仏教=祈祷ではないので、浄土真宗のお坊さんからすれば、祈祷のようないかがわしい詐欺行為をするのは金儲け以外の何ものでも無い。と思っている人がおそらく多くて、宗派の教義としても、そう習うのだろうと思います。

 

極端な事例を出しますと・・・

たとえば、大学の合格祈願をしました。すると後は寝ていても、試験会場に仏様が行ってくれて、代わりに100点をとってくれて合格できる。

まぁ、そんなわけありませんよね。

実際には、合格祈願の祈祷をしました。しかし不合格でした。ということが往々にして起こります。

すると、「詐欺だ!」「あそこの仏様は御利益ゼロ!」「全然パワーが無いから行く価値なし!!」と言う人が出てきます。

こうした場合の祈祷の意味を考えてみましょう。


祈祷は何を与えてくれるものなのか?

入試の場合、合格するのは、試験を受ける人です。寝ていたのに試験を受けて合格していた、というような奇跡、あるいは神秘性は、そもそも仏教にはありません。祈祷する人でさえ可能性が0%だと思っていることを祈祷しても意味はないのです。

大学入試のような人生を左右する岐路に立ったとき、私たちは往々にして、不安になるものです。「落ちる」とか「滑る」とか禁句になり、それを見守る家族まで、緊張した空気を醸してしまいます。

そういうプレッシャーをはね除けるために、努力はもちろん、できることは全部やって、試験に臨みたい、と誰もが思います。

神頼み・仏頼みもできることの一つです。

その試験を受ける人が、護摩祈祷を通して「よーーし!仏様にしっかりお願いしたし、後は自分がやるだけ!」と前向きな気持ちになり、不安を取り除いて安心を得られれば、試験において努力の成果を存分に発揮できるでしょう。これまで何人もの人がおかげを受けた、と言われるお寺やご本尊の評判が、力強い後押しになる場合もあります。

結果、願いごとが成就することにつながります。

もし、問題を見て、「げっ!予想と違った!」と思うだけで、頭が真っ白になり、できるものもできなくなるのが人間です。そして、目の前の現実を直視できず、「あの時、あぁしてたら良かった」と、今この瞬間にはまったく必要のない妄想にとらわれて、集中できなくなってしまいます。

イレギュラーなことが起こっても、自分は「幸運なんだ!」「仏様に護られているんだ!」とぶれずに強く思い続けられる拠り所があれば、実力が発揮できないことの方が稀です。

その拠り所となるのが、仏様に祈祷する、ということになります。

病気にしても、安産成就にしても、商売繁昌にしても、同じ考え方です。

「仏さまにしっかりお願いできたから、後は自分が頑張るだけ!」

簡単に書きましたが、そう思うことができるのは、実はよっぽど難しいことなんです。

大事なことなので、詳しく書きますね。


前提として、人は他人の考え方や思想を直接変えることはできません。

心が変化するには、その人自身の納得感や充足感が必要です。

そこに作用しているのは、「スッキリした」「気持ち良かった」という体験を通して感じた感覚が、まずあるでしょう。

加えて、碁石山が祈祷所となった400年以上昔から、何万人という人が祈祷し、おかげを受けてきた、という実績であったり。伝統仏教に対する個人個人の想いであったり。信頼している人や、一緒に行った人が、行って良かったと心から満足している様子だったり。さまざまです。

もし、護摩祈祷を通して得られる心の変化を、何か別の作業で代替できるなら、護摩祈祷は今日まで残っていないでしょうし、私自身、護摩祈祷を勧めることはしません。

テクノロジーがいくら進歩しても、デジタル機器でバーチャルな体験ができようとも、ここで得られる何かは、ここでしか得られないものだろう、と嘘偽りなく思うわけです。

そういう意味で、祈祷が与えてくれる最大の恩恵は「安心」です。

 

※ただし、護摩祈祷にはいくつか種類があって、上で説明したのは、息災法と呼ばれる護摩です。他に、増益・降伏・敬愛・鉤召といった種類の護摩もあり、「怨敵や魔障を退散させる」や「諸尊・善神を呼び寄せる」、といった特殊な祈祷法もあります。しかし、それらを修行で習うことはありませんでしたので、私は祈祷することができませんし、その必要もないだろうと思っています。

祈祷の恩恵を受けたことが無い人が祈祷に頼る必要はあるのか?

強固な意志を持って、自分を拠り所にして、自分を信じ、ぶれずに物事をやり遂げる人もいます。

生まれてこの方、神も仏も信じないし、頼ったこともない、俺は俺の実力でここまでやってきた!そう想う人は案外たくさん居ます。家でも学校でも仏教や宗教に触れる機会が乏しい今の時代ではこれからも増えていくでしょう。

それはそれで結構なことです。何も否定もしませんし、その自信が自分を支え、実力を発揮し、自らの幸せと周りの幸せを創出するものであれば、誰にも咎められることでもありません。

祈祷はその人にとって必要がない行為といえます。

ただし、物事が順風満帆で、幸運が重なったとしても、なぜか不安を抱え、心が渇いた状態にあるのが人間というものです。

傍から見たら幸せそのものなのに、本人の気持ちは真逆だったり。まだ起こっていない先のことに恐れを抱き、ネガティブな妄想にとらわれ、十分うまくいったことに後悔して・・・どうしてそんな心理に陥るのでしょう?

将来を想像して不安がるのは人の性とも言えます。

その悲観的な妄想を抱えている生物だから、人は絶滅しないで今日まで生きてこられたとも言えます。

と、同時に、その悲観的な妄想を抱えているが故に、有史以来、人間は宗教と共に生きてきました。

時代が変われど、国が違えど、民族が異なろうが、人は宗教と共に在りました。

 

あらゆる物事が順調にいっている人でも、

ある日突然、事故にあって命を落とす。

ある日突然、天災に巻き込まれて命を落とす。

ある日突然、予期せぬ病気にかかって身体が思うように動かなくなる。

そういう理不尽が、生きていると往々にして起こります。

どうしたら防げたのか?どこに不平を申し立てればいいのか?どうして自分に?

その問いに人間は答えることができません。

だから、人は宗教を必要としました。

だから、仏教は信仰されてきました。

淘汰される機会はいくらでもあったはずですが、それでも引き継いで、残されて、今日に至ります。

 

これまで、祈祷に頼ってこなかった人、神仏を必要としなかった人に、もし必要と思える不測の事態が起こったら、祈祷が役にたてる時が来るかもしれません。

いや、絶対に必要ない!と誓う人に、無理強いするつもりはありません。

しかし、信じてきたものが答えを出してくれなかった時に、人は脆いものです。自分で抱え込んで、心を患ったり、他人に厄災を転嫁したり、自死を選んでしまうようなことが残念ながら起こってしまいます。

非常にもどかしくおもいますが、祈祷したからといって他人を操ったり、洗脳したりすることはできません。その時、できることは祈祷ではなく、寄り添うことです。

 

個人的に思うことですが、仏様は、いつでもそこにあって、都合のいいときに、都合のいいように利用させていただくほどの懐の深さがあるように思います。

厳しいと言われる仏様もいらっしゃいますが、それは人の状態に合わせて、厳しくもなるし、優しくもなるのだろうと思います。

だから、人間でありがちな、「今まで蔑ろにしていたくせに、どの面下げてやってきた」みたいな扱いは、仏様はされません。

そんな人間の延長で、同じ傾向の想像のつくような存在であれば、寧ろ人間でいいわけです。仏様の存在理由がありません。

仏様の威を借りて、己を神格化して教祖的に振る舞う人や、仏教的なものはあるかもしれませんが、そういうものは、その個人の範疇を超える出来事に対応できないので早晩廃れるでしょう。

 

熟練のお遍路さんを見ていると、みなさん仏様との付き合い方がさまざまで面白いと思います。

それぞれの、さまざまな人生の中で、固有の経験があり、それに照らし合わせて信仰の仕方があり、祈祷の役割があります。

どれが正解で、どれが間違いだと、断定できるものではありません。

祈祷に、頼りたいと思ったら頼る。必要無いと思えばしない。

それでいいと思います。

よく言われる「こっちで祈祷したから、浮気はしてはいけない」は、そう思って、後ろめたい気持ちになるくらいなら、祈祷の本来の役割を果たせないので、しない方が良いと思います。

ただ、人間の延長で仏様をとらえすぎない方がいいとは思います。仏様がそれほど嫉妬深く、偏狭な人間によく似た習性の存在であれば、もはや人間でいいわけです。

 

お釈迦さまがおっしゃられた「諸行無常」と「盛者必衰」という真理。

世の中のものは常に変化し(諸行無常)、良いときもあれば悪いときもある(盛者必衰)を考えれば、人の心が変化することは自然であるし、状況によっては祈祷に頼る場合があってもいいと思います。

個人の心理は移ろいやすく、不安定なものだから、揺るぎないもの(仏)に頼りたくなるのが人間です。


祈祷される対象が知らなくても、祈祷する意味はあるのか?

孫の入試合格を祖母が祈祷する。

娘夫婦の健康を父親が祈祷する。

北朝鮮情勢がきな臭いので世界平和を祈祷する。

 

祈祷する人と、祈祷対象が異なる場合、祈祷の役割はどのようなものでしょう。

仏教では「縁」というものを大切にします。

縁は仏教のエッセンスとも言えます。

この世の中で、何ともつながっていない単独で存在するモノはありません

すべてのモノは、何かしらと結びついています。

たとえば、石があります。

その石は、大きな岩が削れた破片の一つで、長年波に打たれ、脆くなったとところに台風が来て、海に沈み、流され、魚が運び、浜に打ち上げられたところを、カラスが咥えて飛んできて、そこに在る。

たとえば、お寺で飼っている犬がいます。

その犬は、捨て犬でしたが母犬がいて父犬がいます。雨の日に近所の子に拾われて、可哀想と思う住職夫婦に飼われ、毎日散歩に連れられ、食事を提供され、躾され、犬小屋を設置され、ペットショップで買ってきた首輪と紐につながれ、たくさんの人に可愛がられ常光寺の犬として認知されています。

物質でも生物でも、あらゆるものは、何かしらとの関係性の上に存在しています。

それを縁といいます。

だから、何かが動けば、何かに影響を与えます。ただそこに在るだけでも影響し合います。

 

よく言われる先祖の数

私たちには必ず両親がいて、親それぞれにも祖父母がいて、10代遡れば2046人、20代遡れば209万人7150人、その先祖の1人でも欠ければ、私たちはこの世に存在しません。

そういう関係性=縁の元に私たちは存在しています。

また、「人は、あなたに出会って私になる」という言葉もあります。

私を私たらしめているのは、私ではなく、あなた。私という人格も存在も、あなた(を含む外部)との関係性の中で存在する、という縁の言葉です。

 

話を戻しますと、

誰かが誰かのために祈祷を行う、それは巡り巡ってその人にも作用する。

祖母が孫のために祈祷したことが、祖母から親に伝わり、親から孫に伝わり、直接的に「安心」を分け合う場合もあれば、

親が子のためを想って祈ることで、祈った親に「安心」が生まれ、祈祷した子は知らずとも、間接的に好影響を及ぼすこともあります。

そうしたわかりやすい例でなくても、

ただひたすら世界平和を祈祷する間、その人自身が誰も傷つけず、モノを壊さない時間を過ごすことで、世界平和に貢献していることもあります。

よその国の施政者の心を直接操作することはできない、しかし、戦争は相手がないと始まらないものなので、一方にその気がなければ起こりようのないものです。

それをお花畑の考え方、と評価する人もいるかもしれません。しかし、究極の正論に目を背けているだけです。

誰かが誰かのためを想って祈る、そうした尊い行為、時間はを否定する要素は何もありません。

けっして、マイナスを生み出す行為ではないのです。

最後に、私の好きな縁の話をします。

ある人が私を騙して100円を盗みました。私は誰が盗んだのかを疑い、別の誰かを騙して100円取り返しました。すると獲られた人も、別の誰かを騙して盗む負の連鎖が起こりました。たかが100円ですが、その連鎖は地球を一周して、世界中で騙し合いが起こり、盗みが横行する不穏な世の中になりました。

逆に、

ある人が私に100円くれました。私は少し幸せな気持ちになり、別の機会に友達に100円あげました。その友達も嬉しくなって、そのまた友達に100円あげました。たかが100円ですが、その連鎖は地球を一周して、世界中の人が少しハッピーで、他人を大切にし、自分のものを分け与える気持ちをもつ世の中になりました。

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