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2018-02-14

【法話】坊主として気をつけている3つの誓い その1

高野山で尊敬する師僧に教えられたこと。

在家から仏門に入り感じたこと。

日々お遍路さん、檀家さんと接して感じたこと。

 

それらを自分の中に落とし込んで3つの誓い、即ち自分なりの「戒」を持っています。

サラッと3つ書きますね。

 

  1. 仏様の前に立たない
  2. 仏様にしわ寄せをしない
  3. 暇な人でいる

3回のエントリーに分けて1つずつ順に書いていきたいと思います。

1.仏様の前に立たない

物理的に仏様の前に、直立不動で立つな、ということではありません。

仏の前に立つとは、「この仏様に会いたければ、このお寺に参りたければ、俺の機嫌を損ねるな」という考えを持つことです。

仏様のことを考えるよりも、自分の考えを優先する、ということです。

これでは、仏様とお坊さんの主従関係が逆転してしまいます。

常に自分のフィルターを通さないと気が済まない。仏様あるいはお寺を、私物化するお坊さんってよくお見かけします。

お寺で生まれ育って、そこが自分の家だという認識が強い人は、お寺は自分もしくは家族の所有物だという考えを持ってしまうことがあります。

住職はお寺という宗教法人の代表ですが、法人なので、あくまでお寺は法人のものです。

法人の役員には、檀家総代や寺族、法類(同宗・同派に属し,密接な関係にある寺院または僧侶)といった人がいます。

その意志や総意で決まったことならともかく、

個人的に気に食わない奴はお寺の敷居を跨がせない、とか。

自分本位の理由によって参拝方法や参拝時間を制限する、とか。

歴代の人たちが大事にしてきたものを蔑ろにしたり、檀家さん達の要望を無視したり、参拝者の便利を考えなかったり。

ただし、防犯上のことや、お寺が存続していくためにコストや労力と天秤にかけて、やむを得ない場合は、仕方ありません。

たとえば・・・

東京の大都会のど真ん中で、いつも開放されたお寺であれば、セキュリティ上、施錠したり、セコムを入れたり、参拝方法に制約が必要でしょう。

国宝や重要文化財を抱える京都のお寺であれば、維持費もかかるので、拝観料や拝観時間の制限が欠かせませんね。

でも、たいていは大した理由もなく、その時の住職やお坊さんの考え方一つでダメだったり、よかったり、するんです。


人には相性がありますので、私も苦手な人や、理解しにくい人が来た場合、同じ空間に居たくなくなることがあります。

例えば、まったく無言で、気づいた時には、お堂の中を熱心に写真撮影している人がおりました。

声をかけると無視して、自分の世界に入っている。

撮影の許可なく、ご本尊にもカメラを向け、挙げ句フラッシュを焚いてパシャパシャ。

流石に、それはダメだと言って、気まずくなったその人はそそくさと出て行きました。

おそらく、私の表情はこわばり、嫌悪感がプンプン出ていたと思います。

私自身、写真を撮るのは好きなので、カメラを持ってお寺に出かけ、よく撮影します。しかし、撮影禁止の貼り紙がしてあれば、コッソリ隠し撮りしたりはしません。

理由が書いてない場合でも

「撮影してインターネットなどに公開されてしまうと、直接足を運んで来てもらう価値が下がる」と考えているからだろうと想像します。あるいは「貴重なものが、大したセキュリティなく置かれている様を見て、盗人がやってくるのを防ぐ」ためと考えます。

実際、テレビの『開運!なんでも鑑定団』で放映されたばかりに盗難にあった美術館があったり、小豆島の貴重な草花も、愛好者がブログに載せたばっかりに、業者が根こそぎ採っていった、という前例がありました。

私が、上記のカメラマンに苦言を呈した理由は、お寺の雰囲気は、そのお寺を作った人、護持してきた人によって大切に保たれ、空間デザインやライティングも含めて、その仏様の威厳を醸している。そこにまったく配慮せず、とりあえず俺がそこに行った!が優先されてしまうとマイナスの広報になると考えるからです。

坊主になる前のインターネット黎明期に、碁石山を参拝された方のブログをいくつか拝見しましたが、どれもフラッシュを煌々とご本尊に浴びせ、場の雰囲気をまったく感じさせないケバケバしい場所として紹介されていました。

勘違いして欲しくないのは、写真を撮られること自体は良いんです。紹介してくれたら有り難いです。いい広報になります。写真の上手い下手も問いません。

写真では伝わりにくい静謐で荘厳な空間

だからお願いしているのは、「ご本尊にむけてフラッシュは焚かないでください」「他に参拝されている方がいたら配慮してください」ということだけです。

それを伝える前に、自分の意志が赴くままに、環境を考慮しない人は、他にお参りしている人がいたら、いい被写体があったと嬉々としてシャッターボタンを押すでしょう。

それを許していたら、お寺は気持ちのいい空間として、参拝する魅力を失ってしまいます。


こんなこともありました。

岡山の某サッカークラブの選手が合宿で小豆島88ヶ所の霊場を巡っていました。トレーニングも兼ねてジャージやユニフォームを着て、走ってやってきました。その様子を撮影しようとカメラクルーも同行していました。

ワイワイガヤガヤとお堂に入ってきて、仏様に手を合わせるでもなく、「疲れたー」とか「ここ何?洞窟?」みたいな会話をして、その間カメラは回っています。しばらく見てましたが、こちらの存在に気づいても、居ない風です。

そのまま出ていこうとしたので、来た理由と、どうしてカメラを回しているのかを問い、碁石山の説明を簡単にしました。

おそらく彼らにはとても面倒くさい坊主に思えたでしょう。誰も居なければ好きに振る舞えたのに、なんだアイツ、そんな気配も感じました。

いくつかの集団がバラバラに来たので、選手の中にはご本尊の前で手を合わせて行く人もいました。こちらに話しかけて解説を求める人もいました。

そんな人ばかりだったら、私も煙たがられなかったと思いますし、来てくれて有り難いとしか思えませんので、「ようお参りです。お茶のお接待どうぞ〜」くらいのサービス精神を発揮したと思いますが、ファーストインプレッションはお互いに良くなかったです。


過去に碁石山の堂守をしていた方で、よくお遍路さんと喧嘩するお坊さんがいました。

「あの人は苦手だった」「ここで護摩を焚くことはなかった」と、お参りされている方から直接言われることがありました。価値観を押しつける人、人を選ぶ人、それゆえに苦言と同様に「あの人はよかった」「こんなことを言ってくれた」との賛辞もありました。

参拝されるお遍路さんにも、当然偏りがあって、言葉のキツい人や、信仰の形が独特な人、狡猾な人、バックマージンを求める人、さまざまいらっしゃいます。どちらか一方が悪いなんてことはこの世の中にありません。ですが、いかなる理由があろうとも、そのお寺に足が向かない理由が人であってはならないと思います。

仏様の前に立つ人には、何事においても自分本位の性根が存在します。それは、坊主としてだけでなく、人としてどうなのか、にもつながる大きな問題です。そこをなおざりにして、喧嘩両成敗にしてはならないと考えます。


ただ、それも私の独自ルールで、参拝方法の押しつけだと言われれば、そうかもしれません。

なので他人に押しつけることではなく、自分への戒として保っておくことが大切だと考えています。

忘れてはいけないことは、自分は仏様に使われる身で、そのお下がりで食べさせてもらっているということ。

その事務局あるいはマネージャーのような存在が、意志を持ち、いただいた崇敬の念を上へ通すことなく、自分フィルターで選別して、自己満足を優先してはならない、ということ。

たまたま、縁あって、この時代に、この仏様の守をさせてもらっているだけで、自分の所有物でもなければ、その役目が自分でなくても構わないことを忘れてはいけない。

そんな権限は私にはまったくないのです。

お坊さんはどんな若輩者であっても、敬語を使われたり、尊敬を集めることがあるので、ふとすると自分の役割を忘れてしまいそうになります。

かく言う私も、気づけば仏様の前に立とうとしてしまいます。在家(一般の家)で育ち、ついこないだまで参拝する側にいたのに。

環境は人を変えます。

だから、自分自身の戒めとして、特別意識して、携えておかなければならない大事な誓いです。

 

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