遍路とは人生なり

遍路とは人生のようだ
ふーーーん、そうなんだ。
30代前半、初めて触れた時にはそれくらいの印象だった言葉。
何かの書物で読んだ時も、それっぽい美辞麗句を並べているような内容で、その言わんとするところが心に残らなかった。
つい先日も同じ言葉を、こんどは歩き遍路の男性から直接聞いた。
「この年になって初めてわかりますが、遍路とは人生のようです」
「歩き始めて、最初の日、そこから20番くらいまでは、がむしゃらに急くように歩いていましたが、半分くらい回ると、自分の歩くペースやリズムがわかってきましてね。ゆっくりお参りすればいいんだ、と思い始めて、はじめの方はもっとちゃんとお参りしておけばよかったと思うんですよ。
そして、あと10箇所くらいになってくると、もったいなくて、寂しくなってくるんですよ。あぁ、あとちょっとで終わってしまう、ってね。
私はまだ60代ですが、88歳まで生きられるとすると、残り数えるくらいの年月になって、大事に生きないといけない、と思うわけです。同時に若い頃の突っ走っていた自分に、なんでそんなに急いでるんだ、そんなに急がなくてもいいよ、もっと丁寧に生きろ、と言ってやりたい。遍路は人生とそっくりです」
そんな言葉を聞いて、心に響くのは、私も相応に歳をとったのだろう。
今なら身に染みてよくわかる。
母親になれば、母の気持ちがわかり、父親になれば、父の気持ちがわかるように、自分の身をある段階におかないと見えてこない景色やわからない言葉がある。
限られた休日を、事細かにスケジューリングして、今日はあそこまで行かないと!とノルマを課して歩くお遍路に意味はない、とは思わないけれど、目にする景色の美しさも人の優しさも、時間という優先順位の下に追いやられて、焦燥感の素になってしまうような遍路だったらもったいない。その一瞬一瞬を楽しめない時間の使い方ももったいない。
遍路はいろんなことを教えてくれる。
今年の小豆島の春は、晴れ間が見えない雨ばかりの日が続いて、4月になってようやく桜が開花しはじめた。去年より1週間以上おそい春の到来。
春は1年で1番お遍路さんが多いシーズンで、毎年同じ日にちの同じ時間にやってくる遍路団体の人も多い。
みなさん、口々に
「こんな年は珍しい。〇十年お参りしているけど、同じ年はないなぁ」
と言う。
それを聞くと、小豆島に来て、地元に帰るお遍路の数日間も、毎年異なる1年のようで、人生のようだ、と思わないでもない。
