2018-02-11 |
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子供が生まれてから、絵を描くことが多くなりました。
特に長男は私に似て、熱中没頭タイプなので、黙々と塗り絵、黙々とお絵描きをすることがあります。
長女の方も、兄が大好きなので、そのやることなすこと一緒に関わりたいらしく、塗り絵も、お絵描きも3人でよくやります。
そんな子供たちのおかげで、実現したできごと。
絵を描く趣味は、幼少期からあったのですが、芸大に進むわけでもなく、ちゃんと習ったこともなく、大阪で社会人をしていた時に、チケット制の絵画教室に通ってはいましたが、チケットを残したまま通わなくなり、仕事が忙しくなって、疎遠になると行きづらくもなって、画材道具一式ロッカーに置いたままフェードアウトしました。
暗黒の過去というわけではないですが、後ろめたさを少し感じて、絵を描く趣味自体も疎遠になりました。
小豆島に来てからも、絵を描く機会がなかったわけではないですが、本当にチョロッと。せいぜい5分以内で描けるボリュームで。
子供が生まれてから、せっかく小豆島に住んでいるんだから、自然の中で遊びなさい、外に出て行けない時でも、何かしらアナログなことをやりなさい、と子供たちに圧力をかけ続けながら、その実「アナログ的なことって何だよ!?」と自分にツッコミながら、確たる信念があるわけでなく、盲目的にテレビ・スマホよりはマシという一方的な思い込みを頼りにして言ってました。
しかし、言うばかりで、子供に寄り添わないのはダメな父親の代表だろう、という想いもあったので、自分が楽しめて、子供たちにも経験させたい家遊びとして、心の中の重い扉をこじ開けて、お絵描き趣味が再び世に出てきました。
前置きが長くなりました。
そんな絵を描く趣味を思い出して、「女子へんろ」や「卒業遍路」など、主催者として関わるお遍路行事の地図を描くようになり、それが編集者の目にとまり、『小説宝石』にて挿絵を担当させてもらうことになりました。
びっくりな展開です。
ちゃんと原稿料もいただけるようで、イラストレーター坊主誕生です。なんか長いので画坊主です。画坊主慈空の誕生です。
慈空のinstagram
『小説宝石』に掲載する内容は、『体験ルポ 小豆島八十八か所巡り 内澤旬子』とある通り、作家内澤旬子さん自らが、小豆島八十八か所を歩き遍路して、その内容をエッセイにする、というモノです。
内澤さんは、現在小豆島に在住しており、島に移住してくる前に、碁石山に来られ、それ以来のお付き合いです。
その後、彼女の中でお遍路をしてみたい、という意欲が生まれ、それならば小豆島八十八か所霊場の案内する新書を作ろう!と出版社に企画を出すも敢えなくボツになるものの、遍路エッセイならOKとなり、私が遍路の手ほどきをさせていただき、実際に彼女が歩き始め、連載にいたる、という展開です。
単なる日記ではなく、世界中を旅して来た彼女なりの視点、また本文の中でも触れられていますが、佛女だったという過去を持つ経験から、小豆島の歩き遍路に何を感じるのか、とても興味深い内容で、これから毎号楽しみで仕方がありません。
私自身の挿絵は、お目汚しな部分もありますが、連載を重ねるうちに見られるものにしていきたいな、と思います。
全国の書店、どこに行っても取り扱いのある雑誌なので、是非お買い求めください。
<小説宝石2月号>
<小説宝石3月号>
内澤さんの作品はコチラ
<私も寄稿してます『おいでよ小豆島』>
<小豆島に移住した体験を書いた『漂うままに島に着き』>
<今もヤギを飼っているそうです『飼い喰い』>
<イラストが存分に登場して見ても楽しめる『世界屠畜紀行』>
下界とは違う銀世界になります
関東に大寒波が来て、東京が大雪に見舞われるなど、今年は寒い日が多いです。
碁石山の標高は300mほどなので、低山には違いなのですが、冬の間は海風が強く吹くので、平地に比べて5度以上寒いことがよくあります。
本堂の手水鉢の水が白く分厚くなってくれば、いよいよ寒い証拠。
マイナス5度を超える日も多いです
氷点下5度を超える日が連日続くと、人の居る場所ではないように思います。
碁石山を含む小豆島の山岳霊場は、どこも辿り着くまでの傾斜がかなりキツいので、少し雪が降って、溶けずに残ってしまうと、滑って登れなくなってしまいます。
傾斜がキツいのでよく滑る
4WDの車重の重い車で、スノータイヤを履いていたら何でもないのでしょうが、小豆島で走っている車の大半は、背の高い軽四。私も例に漏れずノーマルタイヤの軽トラですので、自分が登れれば他の車も大丈夫だろう、という目安にしています。
今冬に入って「凍結してますのでご注意ください」という日が既に5日ほどになりました。小豆島は季候が良いと言えども山は別世界ですね。
凍結情報は、Facebookページで更新していますので、確認してください。
水だけで無く花も葉も固まります
凍結で困ることがもう一つ。
お供えの花や葉が凍ります。それ自体は保ちがよくなるので、悪いことではありません。問題は、水→氷の膨張によって、真鍮の花瓶が割れること。
そのため、雪国では冬の間は、水を抜いておくものですが、小豆島は温かい日もしばしばあるので、思い切って抜けません。そのせいで、そこが抜けた花瓶がいくつかあります。
雪が降ると、塩化カルシウムを撒いたり、溶けずに凍ったら、雪かきのような作業も発生するので、できるだけ降って欲しくないものですが、景色は特別なものがあります。
とてもフォトジェニックで、夢中でシャッターを切ってしまいます。
遠景に見える寒霞渓の山々も絶景。
雪が解けて、霧が出る様子や、霧が晴れていく様も見所です。
ただでさえ危ない鎖場はより危険に
陸地から湯気が出ているかの様です
小豆島最高峰の星ヶ城と清滝山
お参りには向かない日も多いですが、寒い日の合間の日は、空気が澄んで瀬戸内の多島美もよく見えますので、皆さま警戒し過ぎずに、お越し下さい。
仏様にはさまざま縁日というものがありますが、碁石山のご本尊「浪切不動明王」さまの縁日は28日です。
1年で一番最初の縁日である1月28日は「初不動」です。
小豆島では、昔から初不動参りというバスツアーがあって、碁石山を皮切りに小豆島霊場の「不動明王がご本尊の札所」をすべて巡る限定遍路が行われてきました。
バスツアーに限らず、お不動さまを信奉し、その日に必ず来るお遍路さんも何組かいらっしゃいます。
霊場開きの「初大師」の日に続き、この「初不動」が来ます。それ以外の仏様の縁日で「初〇〇」というのはなぜか聞きません。それだけお不動様という仏様は人気があるのでしょう。
ちなみに、小豆島霊場の「不動明王がご本尊の札所」を列挙すると・・・
02番 碁石山 山岳
09番 庚申堂
21番 清見寺
37番 明王寺
53番 本覚寺
72番 笠ヶ滝 山岳
75番 大聖寺
76番 金剛寺
81番 恵門ノ瀧 山岳
番外 藤原寺
の10ヶ所になります。
山岳霊場が3ヶ所もあるのは、やはり行場にはお不動様が奉られることが多かったのでしょうね。
不動明王ばかりを参拝するのですが、唱えるお経などは普通のお遍路を違いはありません。
ただ、不動真言はメジャーな仏様の中では一番長いので、声はたくさん出さざるを得ない1日になりそうです。
のうまく さーまんだー ばざら だん せんだ まかろしゃだ そわたや うんたらた かんまん
ちなみに不動真言には3種あり、上で紹介したものが慈救呪[じくのしゅ]。不動真言といったらコレという定番です。
のうまく さーまんだー ばざら だん かん
短いものが小呪[しょうしゅ]。
のうまく さらば たたぎゃてい びゃく さらば ぼっけい びゃく さらば たたらた せんだ まかろしゃだ けん ぎゃき ぎゃき さらば びきんなん うんたらた かんまん
最後が火界呪[かかいのしゅ]と呼ばれ、唱え癖もあり、覚える難易度が高い真言です。
火界呪は、護摩祈祷する時に読まれることが多く、ベテランお遍路さんでも、お不動様好きでなければ知らない人が多いです。
ちなみに、真言覚えてないのでどうしよう・・・唱えないでおこうか・・・という場合は、
南無不動明王
でも、大丈夫です。仏様の前に「南無」をつければ真言を唱えるのと同義です。
意味は「不動明王様に最大限 帰依します」です。
帰依とは、「信奉し、最大限尊敬致します」というような意味ととらえてください。
今年は日曜日だったこともあって、大勢の方が参拝に来られました。
1年の決まった日に、決まった目的で、参拝する、ということは初不動に限らず、よくあることです。しかし、あらため考えると、だからこそ尊いものだな、と思います。
みなさん信心深いベテランの方が多いので、こちらがクドクド説明しなくてもよくご存じなのですが、毎年繰り返すことだからこそ、同じような話をして、その意味や功徳を再確認することが大事なのだな、と思います。
繰り返すから特別なんですよね。お参りって。
(写真提供 すべて藤原奈美さん)
毎年、1月21日は小豆島の「霊場開き」、いわゆる「島びらき」の日です。
21日は弘法大師の縁日で、1年の最初の縁日は「初大師」と呼ばれ、その日を境に、小豆島霊場の巡礼が活発に・本格的になっていく、というわけです。
「島びらき法要」の具体的な内容は、霊場会本院が側にある土庄港に、霊場寺院の住職と関係者が集合して、船で到着した最初のお遍路さんを迎え、土庄港〜霊場会本院に至る1㎞足らずの道のりを、共に練り歩くという行事です。「お迎え大師」と呼ばれる、いつも霊場会本院でお遍路さんを迎えられるお大師さまも、港まで出張して、御詠歌隊とお稚児さんも同行します。さらに今年は、高野山から「こうやくん」と、宗教舞踊を披露するお遍路団体も加わって、より一層盛大に行われました。
(般若心経で迎える住職の面々。手前の神輿がお迎え大師。奥のデカイのがこうやくん)
(大勢の御詠歌隊。島の人ばかり)
(船から降りてくるお遍路さん)
私も行列に加わり、赤い番傘をさしてお練りをしましたが、風の無い快晴で、みなさん和気藹々と素晴らしい「島びらき法要」になったと思います。
朝日新聞の取材を受けて、島びらきについてコメントを求められたので、次のようなことを答えました。
「賑やかに盛大に、霊場開きの日が迎えられて何よりです。この島びらき法要を見た人が、自分たちの住む場所には、遠方からお遍路さんが巡拝に来るような霊場があることを知り、御詠歌を聞き、舞踊を見ることで、有り難いという気持ちを起こしてもらえたら幸いです」
おそらく全然違うことを書かれていると思うのですが、この練り歩きはお遍路の入口の行事で、見て、触れて、良いな、と思っていただくことがとても大事です。だから、テレビで放映されることと新聞に載ってニュースになることはとても大事で、フォトジェニックになるように、坊さんも私語を慎み、左手でまっすぐ番傘を持ち、脇見をせずに歩きます。欲を言えば、もう少し写り映えする背景なり、ランドマークがあれば、全国から写真愛好家が集うのに、と思います。写真を撮る人はそれを人に見せて拡散しますから、無料で素晴らしい広報をしてくれますからね。
ちなみに、霊場開きの法要がいつから始まったのか?定かな記録が残っているのか知りませんが、大正2年に霊場会本院が土庄港近くにできてからだと思います。現在の場所に今の建物が建ったのが、その後のことで、戦後少なくなったお遍路さんをなんとか増やそうと、当時の霊場寺院住職たちが知恵を出し合い、少なくとも60年以上の歴史があります。
(2番目が私です)
(四国新聞の前を通って。道中歩道はあるものの、信号が多く、道幅も狭いのが難点)
(ようやく霊場会本院へ)
本院に到着してからは、遍路先達の方々は、2階で着座して法要の続きを。僧侶と共に行い、会長や町長の挨拶を受けます。
御詠歌やお稚児さんたちは、1階のお堂でお加持を受け、初大師の御守りを受け、御詠歌隊の皆さんは、大合唱で一曲奉納されます。個人的には、狭い空間に鳴り響くこの御詠歌が1番のハイライト。各地区・寺院で御詠歌の指導をされる先生達の集まりなので、それはそれは美しいハーモニーが響き渡ります。
霊場会の駐車場では、お餅と素麺のお接待もありました。皆さん帰られてから、ようやく一杯呼ばれましたが、こうやくんの中の人が1番大変だったと聞き納得。見えない視界で、あの大きな頭はかなり頑強につくられているのでとても重いはず。そして、まさか霊場会本院まで歩かされるとは・・・想像しただけでゾッとしました。来年はたぶん来てくれないでしょう。。。
法会が全て終わった後は、港近くの遍路宿「長栄堂」で、遍路団体の団体長の皆さんと霊場寺院住職たちで一席設け、霊場話に花を咲かせます。
途中で帰ったお寺さんがおり、空きができたので、久しぶりに参加させてもらいました。8年間碁石山に居るおかげで、出席していた団体長の全員の顔を知っていて、参拝中には軽い挨拶程度で終わってしまうところ、その場ではゆっくりお話を聞くことができました。昔の札所のこと。私の祖父・祖母を始め、建て替える前の札所や、安置されている仏さまの逸話など、知らないこともたくさん聞けてとても面白かった。
教えてくれた人は、それぞれ90オーバーの祖父母世代。話を聞いていると同級生の様。その世代で、頭も足腰もしっかりして昔話を語れる人が少なくなってきた中、貴重な時間だなぁ、としみじみ思いました。それと信仰を持っている人の強さを感じます。これは自戒を含めて、お坊さんの方がよっぽど見習わなくてはならないことだと思います。
新しいお遍路さんを開拓することが自分の使命だと思っているし、そこが自分が役に立てるポジションだと思っているけれど、今まで霊場を支えてくれてきた遍路団体長たちには、いつも最大限のリスペクトをもって迎えたいと、あらためて思いました。
またお逢いできますように。合掌
ちなみに「島開き」はありますが、「島仕舞い」はありません。12月21日は普通の縁日です。開きっぱなしの小豆島霊場です。めでたい(笑)
(すっかり明るくなった霊場会本院の1階お堂。お大師さまの表情も明るくなった様)
未来の住職塾 最初の講義
昨年の4月からおよそ一年間、といっても6回ほどの講義ですが、未来の住職塾という講座を受講しました。
名前のとおり、未来の住職を育てる塾です。お寺の住職・副住職、寺族・檀家総代・その他お寺に関わる人が対象の塾で、過去5年の実績があり、全国で先進的な活動をされているお寺の方々が先輩になります。例年は東京や大阪、名古屋、福岡といった大都市でしか開催されないところが、今年に限っては香川クラスもあったのもきっかけになりました。
内容としては、お寺を運営していくノウハウを学ぶ、という感じで、お寺離れ、仏教離れに加えて、さまざまな社会変化の多くがお寺に逆境の時代、お寺をどう存続させていくか。これまでどおりのやり方は通用しないよね、という前提の下に、リーダーシップをはじめ、マネージメントや財務といった要素を学び、実践していくものでした。
私自身、副住職という立場で、この塾に求めたものは、How toやアイデアではなく、自分の立ち位置の確認と、今やっていること・これからやろうとすることの、取捨、順番、重み付け、そして覚悟を決めることでした。
最後の「覚悟を決める」というのが1番メインで、住職塾の年会費は148,000円(税抜)で、税込みにすると約16万円のけっして安くはない、それだけの費用をかけたからにはそれなりのモノを持って帰らないと!と思わせる大きな投資です。
なので、もちろん毎回無遅刻無欠席で、善通寺まで船と車を乗り継いで、時に宿泊もして、通い通しました。
善通寺の大玄関のとなりにある”いろは会館”が会場でした
住職塾に通おうと思った直接の動機は、昨年、自坊の住職が急な入院で1ヶ月以上お寺を留守にしたからで、その時は「いよいよその時が来たか」と思ったものです。が、自分の覚悟もさることながら、いろいろ準備できていないことが多い、と感じました。その原因は自分でも重々わかっているのですが、副住職という立場に甘んじてきたなぁ、というのが痛感するところ。しっかりやるべきことと向き合わねばならない、と身に染みました。
住職塾の受講生は、浄土真宗の檀家寺の方が多い印象で、真言宗で、札所で、檀家収入がメインの檀家寺と、檀家以外の信者による祈祷収入がメインの信者寺という2つの要素を持つ自坊のシチュエーションは珍しい部類でした。しかし、そこは四国霊場のある香川クラス。四国八十八ヶ所の札所寺院が3人も居て、檀家がほぼゼロというお寺もあったので、意識共有は他のクラスに比べてまだマシでした。ただ、マシというだけで、カリキュラム自体は、檀家寺寄りで、檀家のニーズをとらえて、どのようにお寺を経営していくかが柱となっていたので、減りゆくお遍路さんをどうするか?少ない人手で、山寺の広い敷地をどう維持管理していくか?などの独自性を棚上げした状態で、課題やワークをこなさなければならないのは、大きな混乱の元でした。檀家寺と信者寺のアプローチは全然違うのに、「この人ら(講師陣)全然わかってへんのに、どう説明したものか」と難儀しました。最終的にはそれぞれ切り離されたものではなく、つながるものだと、自分なりに腑に落ちるものとなりましたが、途中で面倒くさいから「信者寺」の部分無視!とか、その逆もやりました。
毎回テーブルごとの共同作業があり、手と頭と口を使いました
よそのお寺さんの話を聞いて、面白いなぁと思ったことはたくさんあって、その大半は自分の想像が間違っていて、驚きと発見がありました。いくつか例を挙げると、本格的な年単位の修行がなく僧呂となった住職が、いかに檀家さんに対して威厳を保つことに苦慮しているか、とか。お寺の代替わりの仕方はさまざまで、世襲するにしても、未来への投資も過去からの遺産もさまざま。負の遺産があるからやりやすい場合もある、とか。そして、純粋な檀家寺の住職という立場は、将来に対する不安・焦りをよりダイレクトに感じていて、その危機感は札所寺院の比では無いこと。
長いお寺の歴史で、今の時代に住職を受けるのは、たまたまの巡り合わせであって、立場自体借り物でしかないから、所有物という感覚も、拡大志向も持たない、という自分の価値観が、意外なことに他のお寺さんとも共有できたこと、など。
いろんな人とチームを組んで、共通の課題をこなす内に、自分のことも、自坊のことも客観的に評価できて、アレもしたいコレもしなければ病に毒されてきた頭が、次第にスッキリしてきました。そして、副産物として危機感を共有する同志ができれば有り難いなぁ、とあまり期待していなかった部分は、短期間で成果物となりました。
振替で岡山クラスで受けたこともありました
影響を受けた人はさまざま居りましたが、まずは塾長の松本紹圭師の物腰の柔らかさ、フラットなスタンスが特筆でした。この2つはお坊さんに求められる要素でありながら、備わっていない人が多く、ちやほやされて勘違いしてつけ上がる人が多い中で、とても安心できました。もう一人の講師である井出悦郎氏の僧侶では無いゆえの容赦ない批評。「お寺の互助会のような結衆というシステムは、お寺側だけの理屈でまかり通っているけど、檀家からしたら対価に値しないサービスレベルの場合が多い」とか。「ニーズがなく数字も伴わないことで、お寺にとっては大事だと言われても無駄としか思わない」とか。お寺や仏教に関わりのない一般人の忌憚のない意見ではっとすることが多かった。他にもお坊さんでありながら月刊13万PVのブログを運営する三原貴嗣師や、同じ副住職で在家出身という立場ながら、安産祈願を軸にお寺のカラーを変えた村上哲済師等から多くの刺激をいただきました。
自分は怠け者で、外圧がなければ動かない&動けない人間であるけれど、彼らの前で言葉に出して、お寺の使命やビジョンを語ることは、覚悟と責任を奮い起こすには十分でした。
お寺のビジョンについては、まだ副住職の立場の自分が語る口を持たないですが、自分が常光寺、碁石山にいる理由=使命についてはここで公言しておこうと思います。
会場の一つだった最上稲荷
私が考えるお寺の存在理由とは、”そこに住む人と関わる人に安心と安らぎを提供する存在でなければならない”と思います。
仏教的にどうだ、縁起はこうだ、という要素はありますが、そもそも仏教が日本に伝来して広く普及した理由、お寺の開祖が、その場所にお寺を開いた理由を紐解けば、そこに住む人たちのために、お寺が必要だと考えたためです。なぜ必要かと言えば、困っていたから。何に困っていたか?というと、悩み苦しみを解決できないでいたから。だから仏教の教義が役に立ち、それを説くお寺と住職に存在価値があったわけです。そのことを端的にまとめると、安心と安らぎを提供するためにお寺は在った、わけです。
そこから導き出した常光寺の使命は、
小豆島に住む人と、小豆島を巡礼する人に、安心と安らぎを提供する存在。そのために、檀家・非檀家の垣根を越えて、老若男女さまざまな方との縁を大切にし、その声に耳を傾け、「私たちのお寺」と想ってくれる人を増やし、共にお寺を護持していく。財政面だけでなく、人的バックアップも強固に備えた経営基盤を持ち、いついかなる時も、変わらずそこにあって、求められる役割に応えられるよう準備しておく。
です。
今の時代、1年後、3年後がどうなっているかわかりません。10年後なんて見当も付きません。お金の価値も目まぐるしく変わっていくでしょう。しかし、社会環境がどう変化しても、人を軸にしたお寺の使命に忠実に従っていけば、常光寺を必要とし、大切に想ってくれる人によって、その価値は不変であると思います。その結果、お寺は存続することができ、先人が護持してきたように、私も次の世代にお寺を引き継ぐことができるでしょう。
未来の住職塾に行ってよかったか?学んだことが役になったか?
ひとまずは、お寺の使命を自信を持って明文化できたいことでYesです。
他にも諸々学んだことを、次は実践&実践で実証し、檀家さんや家族にも甲斐があった、と認められるようにしていきたいと思います。
宿泊にはゲストハウスをよく利用しました
夜遅くまでやってくれるレンタカー屋は重宝しましたが途中で辞めてしまいました
うどんをよく食べました
1月14日は毎年恒例の御日待ち会。通称「お日待ち」を常光寺で行いました。
小豆島の中ではお日待ちは、お寺で行う行事として行われます。夜に集まり、日の出を待って解散というのが本来の流れ。1・5.9月の14日から15日にかけて行うというのが一般的なようです。しかし、昨今、高齢者が多くなった地域では、夜に出ていく行事は人が集まらない等の理由で、15日の昼に開催するお寺もあります。
実際の内容としては、集まった人たちで飲食を共にし、夜通し楽しく語るというもので、宗教儀式ではありますが、そんなに畏まった風でもないのが特徴です。そして、お寺で行う割に、神様に対して行う宗教行事というのが面白いところでもあります。
小豆島では、仏と神の境界がとても緩やかで、これは仏事だからお寺!これは神事だから神社!と杓子定規に分けられないものがたくさんあります。明治時代にあった、廃仏毀釈という神社の地位を高め、お寺から切り離していった運動は、離島である小豆島では、それほど大きな影響を与えず、神仏習合の名残が今でもそこかしこに残っています。そのためか、12月に行われた師走経をはじめ、なぜに坊さんがやるのだろう?と首を傾げるものが多いです。
なので、他の地域のことは存じませんが、お日待をお寺で行うのも、小豆島なら納得という感じがします。
常光寺のお日待は、日の仏である「日天[にってん]」さまを灌頂(仏の世界から呼んできて)し、ご本尊としてお経や供物を捧げ、その前で護摩祈祷を行って礼拝します。
薬師堂に日天さまの軸を奉り、その前で護摩祈祷します
日天尊は、仏教ではあまり馴染みの無い仏様ではありますが、太陽を司る仏様で、お日待には相応しい仏様だと言えます。ちなみに日天さまに対し、月天[がってん]さまも居て、小豆島では行われていませんが「月待ち」という行事ではご本尊として奉られることもあるようです。
護摩の後、本堂でもお勤めを行い、ここであらためて新年の挨拶を行います。年が明けて14日が経過しているわけですが、西日本では15日までが松の内と言われ、それまでは年神様が各家にいらっしゃる、として正月の範疇に入るとされます。
最近は、三が日明けると、正月気分もどことやらですが、だいたい新学期が始まる8日くらいまでなんとなく正月という感じで、年賀状も新年の挨拶として届き、それ以降は寒中見舞いみたいな空気があります。しかし、本来で言えば、15日まではしっかり正月なんですね。
集まった檀家さんの前で住職が新年の挨拶
仏事と挨拶の後は、本来の?お日待という感じで、食事やお酒が振る舞われます。そこで、出席された皆さんがそれぞれに語り合い、ふだんと変わらない会話だったり、旧交を温めるなり、を檀家という縁の中で行います。気心が知れた仲間同士、和気あいあいといった調子です。
しばらくしてビンゴゲームが始まり、地元企業さまからの協賛や、お寺で購入したものが振る舞われます。この景品が中々どうして素晴らしく、お米10kg、5kgを筆頭に、醤油佃煮の詰め合わせがもれなく全員分あります。以前、祖母が存命の折、お日待は、11月に碁石山で行う柴燈護摩に、檀家のみなさんが協力してくれた恩返しで、お寺からのお接待の意味もあるんよ、と言ってたのを思い出します。
新年早々に、お米をゲットできた人は、今年は良いことあるぞ!と喜び、一人では歩くのもままならない年配の方でも、手押し車に載せて、必ず持ち帰ります。それもできない人は、家族を呼ぶなり、近所の人の助けを借りて、それもまた和やかで良い感じです。
そういう時間と関係を提供できるお日待の価値は高いなーと思います。年々、夜出ていくのが大変で、参加者が減っている行事ですが、易きに流れることなく続けていきたいです。
子供たちもビンゴの手伝いをしました
小さなお子さんも来てくれました
ゲームなんだけど、みなさん真剣
同時ビンゴのお米争奪戦はジャンケンで決めます
勝つジャンケンも負けが勝ちのジャンケンも強い妻、代役でお米ゲット!
毎年恒例のとんど。地域によっていろんな呼び方がありますが、小豆島は共通して”とんど”です。
本坊の常光寺がある小豆島町苗羽(のうま)空条(そらんじょ)地区のとんどは、14日 早朝6時開始でした。
小豆島の中でも、旧池田町エリアなど、開催されない地区もあるようです。二十四の瞳の映画村がある田ノ浦地区など、観光客向けに日中行う場所もあります。
そういう点で、苗羽のとんどは、地元に根ざしたごくスタンダードな風習と言えると思います。
とんどの準備は年始の日曜日に行われるので、出仕できないことが多いのですが、山を開けて、お遍路さんの動きがないことを確認して、下山して少し手伝うことができました。
どこもそうですが、準備をする地元民がみな高齢化して、そのノウハウを私たち若輩世代が継承しておかないと、あっという間に廃れてしまいます。
その場に居た若い衆が、ごく僅かなことを考えると、短い時間でも自分が手伝うことが大事だと思います。地区の活動は何事も。
備忘録的に、準備作業の流れを書くと
① まっすぐのシャンとした背の高い杉を確保する(これがとんどのサイズを決める)
② 付け木として、乾燥させた笹を用意しておく(トロ箱も用意する)
③ ある程度の太さの竹とバベを軽トラ3杯分くらい採ってくる(青い生木)
④ 杉を中心に据え、竹を3本支えに、そえぞれを番線縛って、骨組みを作り、その周辺をバベの枝や竹で補強する。
⑤ 周辺は、枝打ちした竹で囲い、縄で縛る
⑥ 見栄えがするように、四方から枝や笹バランスを見て、形を整える
⑦ 正月飾りや古札を付けていく
⑧ 当日燃やし尽くす
生木や竹を入れるのは、パチパチ、パンパンと景気の良い音がなるから。とんどで燃えた灰は御利益があるとされ、風向きによって家に降り注ぐのも、掃除は大変なれど有り難いと感謝するべき。
年によって、お寺は灰まみれになったり、まったく落ちてこなかったりする。
今年は、同日の夜に「御日待ち」があるので、掃除が間に合うのか?がお寺の人間のもっぱらの懸念事項だった。
さて、迎えた当日の朝は、風も無く、寒すぎない、まさにとんど日和でした。
6時になって、「そろそろいこか〜」的な雰囲気で、みなが動き出し、ゆるやかに、徐に、点火され、見事な炎が上がりました。
毎年見るとんどなれど、なんかいつもメンバーで、知った顔の面々が、醸す雰囲気が心地良くて、自分もこの土地の一員にちょっとずつ成ってきてるんだな、というのを実感する。とんどに限らず、地域の年中行事の度に、それは思うというか、その土地に生きている実感というか、まぁ有り難いことです。
時間が経つにつれ、子供たちの姿も多くなり、お楽しみのお餅タイム。
各家それぞれに、餅の種類やサイズ、数、焼く網の形、土台の石、アルミホイル使う使わない、火箸、諸々が統一感無く、それでいて目的は同じというのがとても面白い。
大林家としては、正月の鏡餅が大量にあるので、最初何年かは大きな塊を大量に持ってきていたが、何もとんどで全て消費しなくてもいいことに気づいて、今年は小さく刻んだモノを極小量持ってくるようにしている。
あ、そうそう。とんどでお餅を食べるのは、とんどの炭で焼いたモノを口に入れるのもまた御利益があるとされるからで、餅に限らず、焼きみかんとかでも十分有り難い。餅さえ焼けば、子ども会の当番の方が、ぜんざいの汁を用意してくれており、それに入れれば、美味しい熱々のおしるこができあがる。
聞いた話によると、ぜんざいの汁が用意されず、各自餅を持ち帰って、家でおしるこにするところもあるらしいとか。それは面倒だし、その場で食べないと雰囲気でないやん!という苗羽の常識は、限られた特権だと知った。有り難い。
そんなわけで、今年も無事とんどを厳修することができ、無病息災の餅を家族で頬張ることができ、とんどの灰もほどほどにお寺に降り注いで、1年を安寧に乗り切ることができそうな気がしました。
場違いな感じがしないでもないですが、宝島社の『大人のおしゃれ手帖』に碁石山を紹介していただきました。
天海祐希さんと同じページに載りましたが、同じ空間に居ることはありませんでした(残念)。
(ここだけの話ですが、はじめ「大人のおしゃれ手帖」と聞いて、長いから「大人の」が抜けて「おしゃれ手帖」の取材だと思い込んでて、さらに勝手に『暮らしの手帖』だと想像して、「そうか、そうか、ついにあの雑誌に載る日が来たんだなぁ」と浮かれておりました。)
ちなみに、大人のがとれた「おしゃれ手帖」は、むかしサンデーで連載していた漫画ですね。実は単行本持っているほどのファンです。それなのに、暮らしの手帖を連想するとは・・・長尾謙一郞先生に申し訳ない。
だから、まさかこんなおしゃれーな誌面に載るとは思わなかったです。
内容は完全に大人の女性向けで、おしゃれなナイロンボストンバッグも付いてきて妻が喜んでおりました。小豆島の美しい写真もたくさん掲載されておりますので、是非お手にとってご覧下さい。
2018-01-06 |
お知らせ,
お遍路さんのこと,
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法話
今年の干支は戌です。
碁石山では、正月にお参りの方には干支の切り絵をお接待しています。
さてさて、戌年ということで、毎年護摩の後のプチ法話として、干支にちなんだ話をします。
ワン!ダフルな一年に。とか、そういう語呂合わせ的な話をしてもいいのですが、で?じゃあ実際何をどうすればいいのよ?って話になるので、そういうのはヤメにして。
犬は私にとってとても身近な存在です。多くの人にとっても十二支の中で1番馴染み深い動物ではないでしょうか。
過去に犬を飼ったことは数度あり、今もお寺には犬がいます。
私がちょうど小豆島にやってくる1ヶ月前に拾われてきた雑種犬ですが、先輩には違いなので、ずっと散歩の世話をさせてもらっています。
だから犬を見ない日はありませんし、毎朝1番に顔を合わせるのは、ワンコであることが多いくらいです。
そんな身近な、手の届く、いつも側にある、当たり前の、特別ではない普通の存在、そこにフォーカスが当たっている年というのが”戌年”です。
だから、身近なこと、手の届くのこと、いつも側にあること、当たり前のこと、普通のこと、にフォーカスをあてましょう。
そうした何でもないことを疎かにせず、大切にする一年にしたいと思います。そして、そうした日常を、手抜きなく丁寧に繰り返すことで、気づけば「良い一年だったなぁ」とか「大きなことをやり遂げた」とか「諸願を成就していた」につながるように思います。
人間誰しも、助走の無い大ジャンプはできません。大きな目標を掲げたら、どこからか突風が吹いて、幸運に次ぐ幸運が続いて、出遭うはずの無い人に巡り会って、手に入るはずのない成功を収める、という風にはできていません。
大きな目標は、小さなことの繰り返しで達成される。
それを忘れず、念頭に置いて、忘れたら犬を見る度に思い出して、行動すれば、きっと素晴らしい1年になると思います。
あけましておめでとうございます。
旧年中はお世話になりました。
年末、正月準備に明け暮れる中、救急車や消防車のサイレンがけたたましく鳴り、忙しない年の瀬を感じながら、もう一年が経つのか、と感慨に耽っておりました。
碁石山の堂守をするようになって9年目の今年、例年になく山を空けることが多く、毎年同じようにはいかないなぁと感じます。
いろんな理由がありますが、葬儀ができたので下山した、ということが多くなってきました。
年間200人移住者がやって来ると言われる小豆島ですが、それを足し算しても、年間500人減っていきます。
毎月の町広報誌のお悔やみ欄には、結婚と出産の10倍の名前が連なり、帰省者で賑わい、ふだんより一層かがやきを増す大晦日のまちの灯りも、今年は何か少ないように感じます。
そんなもの悲しい気持ちがある一方で、嬉しいこと、未来は明るいと感じることも、同じようにあるのが世の中で、人生です。
穏やかな気候の中、五体満足で新年を迎えられたことにまず感謝。
人が減ったとは言え、除夜の鐘を134人のご近所さん達と共有できて、新年の挨拶を普通に交わせたことに感謝。
家族が居て、屋根の下で、これから布団の中で寝られる幸せは、とても特別なことに違いありませんね。
そういう足りることに気づいて、できることから少しずつ、新しい年を歩んでいきたいと思います。
本年もどうぞよろしくお願い致します。