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2016-01-15

僧呂とシステムエンジニアの共通点

自己紹介で、私の前職がシステムエンジニア(以下SE)ということを書きました。

続・続自己紹介

僧呂とSE。一見何の関連性もないような仕事ですが、実は共通点がたくさんあるよ、というエントリーです。

昔家にあったサーバー

昔家にあったサーバー

坊主になる前から、小豆島は、都市部にくらべあれやこれやのインフラが整備されていないことが多いと思ったので、コンピューターの知識は役に立つだろうな、と予想していました。

結果は予想通りで、専門的なことでなくても、ネット通販の仕方、ヤフオクなど個人売買のノウハウ、海外個人輸入の経験をはじめ、チラシ・年賀状などのビジュアライズな紙媒体からビジネス文書・案内状等のお堅い紙媒体の作成、家庭内LANのストレージやプリンタの共有に、デジカメ・ICレコーダー・スマホ等のガジェットの知識に至るまで、日々の生活で役立つことは目白押しです。

そもそも、社会人経験がなければ難儀したであろう、メール、電話応対、或いはいろんなタイプとの人付き合いといった一般常識も当たり前に役立ってます。

常光寺や碁石山のWebサイトもなかったので、昔取った杵柄で作りました。

 

レンタルサーバーの引っ越しから得たもの

昨年の話。Webサイトのレンタルサーバーを引っ越しして、Webサイトをリニューアルしました。

はじめ常光寺のWebサイトは、小豆島に来てから、レンタルサーバーを契約し、iWeb(Appleが昔作っていたホームページ作成ソフト)で6年前に作ったものでした。しかし、この長らく運用していたレンタルサーバーから「11月末でサービスを終了するので、各自移行作業をしてください」という通知が8月末に来ました。

利用していたのはサーバーカウボーイという激安のサーバーサービスで、電話窓口はなく、トラブルシューティングのメール問合せもレスポンスが遅い、安かろう悪かろうの業者でした。

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しかし、そんなサービスの中に、「常光寺のWebサイト」と、「歩き遍路通信てくてく」という歩き遍路情報Webマガジンのデータをすべて放り込んでいたので、困りました。それぞれ独自ドメインも取得してサーバーカウボーイで管理していたので、その移行もしなければなりません。

調べると、私と同様にサーバーサービスの引っ越しを余儀なくされた難民が

「8万円かけてサーバー移行をしました」

とかブログで報告しているのを見ました。

おいおい、マジかよ・・・です。

とりあえず、サーバーカウボーイに、データ移行の基本的なやり方を問い合わせましたが・・・梨のつぶて。

覚悟を決めて、データベースやら、WordPressの仕様やらを調べて、こんな感じかな、オラオラ!と2〜3日かけて、ガッツリやったら、完璧に移行を完了することができました。

もうすっかり風化した化石電脳でしたが、何とかなるものです。

40歳という区切りを前にして、この壁を突破できたのは自分にとっては大きかったように思います。

思い返すと大した壁ではなかったのですが、自分が心底やりたくなくて、向き合いたくない問題に、真正面から向き合って思うようにできた、というのはやはり大きなことでした。

お金をケチらず有料業者と契約していれば、やらなくてよかったはずの面倒な作業ですが、そのお陰で今一度デジタル脳と向き合うきっかけをもらいました。自分の取り柄、武器、埃をかぶっていたソレに今一度光をあてて、磨いていくことを忘れてはいけないなぁ、と改めて。

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一生勉強

SEにしろ、僧呂にしろ、知らない知識を勉強することによって取得し、できる技術を増やして、やりたいことをやる。という基本スタンスはまったく同じです。

それが、SEは最新のものに限るが、僧呂の場合は新しいものだけでなく、過去の文献も対象になる、というだけの違いです。

人が進歩を止めない限り、新しい技術はどんどん出てくるので、ITに携わる人間なら、逐一それに反応して、興味をもって、調べて、買って、試して、把握する姿勢が求められます。そしてそれは生涯続きます。一生勉強です。

同様に、僧呂も「俺、勉強しまくったし、なんでもわかるし、悟った!」というようなものではありません。それを口にする坊主はすべからく生臭(なまぐさ)です。

一生勉強。教義を理論的に研究する教相(きょうそう)と、身体を使った修行など実践的な事相(じそう)のいずれの分野でも、これで十分!という限界はありません。一つの真理のようなものに行き着いたら、「本当にそうか?」と問い直して再構築していくのが坊さんの素養です。

修業時代に、師僧が言ってた言葉を思い出します。

「下座(げざ)って何や?」

下座とは、広い意味では掃除のことなのですが、坊主がわざわざ下座というには、単なるものを片付け綺麗に整頓する、だけでなく掃除を通した修行の一つとなります。下座行という言い方をします。

仏さまに対するお勤めといえば、読経することがまず思い浮かぶと思いますが、それだけが、仏に帰依する行いではなく、身体を使った下座行や五体投地のような礼拝行も同じくお勤めの一つです。

上の質問に私は即座に答えられなかったので、

「わかりません」

と言いました。すると

「そうか。わかったら言いに来い」

と宿題になりました。何が求められている答えなんだろう?と数日考えて答えに行きました。

「この世の全てのものは大日如来の変わり身なので、下座行で床や柱を拭いて磨くことは、仏さまを磨くということではないでしょうか」

この答えには、真言密教の教えで、この世の全ての物質は大日如来が変化した姿で、もとは同じであり、変化しないものはなく、今見えているのは仮の姿である、という前提があります。(このことは後日詳述)

これに対する師僧の返答は

「そうか。もっと考えろ」

でした。

正直、正しい答えなんてあるのか〜?と思いましたが、またしばらく考えているうちに、あぁこれは考え続けることが大事なのであって、一つの解に行き着いたとしても、それに執着してとらわれていけない。世の中の事象は立場や見方によって、姿・形・役割・存在理由がさまざま変わっていくのだから当然だ、と気づきました。

果たしてその解釈が求められる質問の回答が否かは、それ以後は返答しに行かなかったのでわかりません。でも、学校教育や職場で、問題には正解というものがあり、それは不変である!という刷り込みに慣らされていた自分には大きな気づきでした。

人間関係を考えたら正解なんてないのに、それを教えないから子供たちは悩み苦しむのに、学校はそうだよな、職場もそうだよな、と昔を思い出しました。

SEの仕事はデジタルな1か0かの世界のことが大半なので、正解のない問いに思い悩むことは少ないですが、一生勉強で、その姿勢を忘れてしまったら、必要とされなくなるのは僧呂と同じです。

IT分野の仕事も決して嫌いな仕事ではなかったので、その世界にどっぷり浸かって楽しんでいた自分には、僧呂の仕事も向いているのかもしれません。わからないこと、知らないことだらけなので、できなかったことができる喜びを感じながらやっていきたいですね。

サラリーマン時代の私

サラリーマン時代の私

 

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