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2018-01-19

未来の住職塾を受講しました

未来の住職塾 最初の講義

昨年の4月からおよそ一年間、といっても6回ほどの講義ですが、未来の住職塾という講座を受講しました。

名前のとおり、未来の住職を育てる塾です。お寺の住職・副住職、寺族・檀家総代・その他お寺に関わる人が対象の塾で、過去5年の実績があり、全国で先進的な活動をされているお寺の方々が先輩になります。例年は東京や大阪、名古屋、福岡といった大都市でしか開催されないところが、今年に限っては香川クラスもあったのもきっかけになりました。

 
内容としては、お寺を運営していくノウハウを学ぶ、という感じで、お寺離れ、仏教離れに加えて、さまざまな社会変化の多くがお寺に逆境の時代、お寺をどう存続させていくか。これまでどおりのやり方は通用しないよね、という前提の下に、リーダーシップをはじめ、マネージメントや財務といった要素を学び、実践していくものでした。
 
私自身、副住職という立場で、この塾に求めたものは、How toやアイデアではなく、自分の立ち位置の確認と、今やっていること・これからやろうとすることの、取捨、順番、重み付け、そして覚悟を決めることでした。
最後の「覚悟を決める」というのが1番メインで、住職塾の年会費は148,000円(税抜)で、税込みにすると約16万円のけっして安くはない、それだけの費用をかけたからにはそれなりのモノを持って帰らないと!と思わせる大きな投資です。
なので、もちろん毎回無遅刻無欠席で、善通寺まで船と車を乗り継いで、時に宿泊もして、通い通しました。

善通寺の大玄関のとなりにある”いろは会館”が会場でした

住職塾に通おうと思った直接の動機は、昨年、自坊の住職が急な入院で1ヶ月以上お寺を留守にしたからで、その時は「いよいよその時が来たか」と思ったものです。が、自分の覚悟もさることながら、いろいろ準備できていないことが多い、と感じました。その原因は自分でも重々わかっているのですが、副住職という立場に甘んじてきたなぁ、というのが痛感するところ。しっかりやるべきことと向き合わねばならない、と身に染みました。

住職塾の受講生は、浄土真宗の檀家寺の方が多い印象で、真言宗で、札所で、檀家収入がメインの檀家寺と、檀家以外の信者による祈祷収入がメインの信者寺という2つの要素を持つ自坊のシチュエーションは珍しい部類でした。しかし、そこは四国霊場のある香川クラス。四国八十八ヶ所の札所寺院が3人も居て、檀家がほぼゼロというお寺もあったので、意識共有は他のクラスに比べてまだマシでした。ただ、マシというだけで、カリキュラム自体は、檀家寺寄りで、檀家のニーズをとらえて、どのようにお寺を経営していくかが柱となっていたので、減りゆくお遍路さんをどうするか?少ない人手で、山寺の広い敷地をどう維持管理していくか?などの独自性を棚上げした状態で、課題やワークをこなさなければならないのは、大きな混乱の元でした。檀家寺と信者寺のアプローチは全然違うのに、「この人ら(講師陣)全然わかってへんのに、どう説明したものか」と難儀しました。最終的にはそれぞれ切り離されたものではなく、つながるものだと、自分なりに腑に落ちるものとなりましたが、途中で面倒くさいから「信者寺」の部分無視!とか、その逆もやりました。

毎回テーブルごとの共同作業があり、手と頭と口を使いました

よそのお寺さんの話を聞いて、面白いなぁと思ったことはたくさんあって、その大半は自分の想像が間違っていて、驚きと発見がありました。いくつか例を挙げると、本格的な年単位の修行がなく僧呂となった住職が、いかに檀家さんに対して威厳を保つことに苦慮しているか、とか。お寺の代替わりの仕方はさまざまで、世襲するにしても、未来への投資も過去からの遺産もさまざま。負の遺産があるからやりやすい場合もある、とか。そして、純粋な檀家寺の住職という立場は、将来に対する不安・焦りをよりダイレクトに感じていて、その危機感は札所寺院の比では無いこと。

長いお寺の歴史で、今の時代に住職を受けるのは、たまたまの巡り合わせであって、立場自体借り物でしかないから、所有物という感覚も、拡大志向も持たない、という自分の価値観が、意外なことに他のお寺さんとも共有できたこと、など。

いろんな人とチームを組んで、共通の課題をこなす内に、自分のことも、自坊のことも客観的に評価できて、アレもしたいコレもしなければ病に毒されてきた頭が、次第にスッキリしてきました。そして、副産物として危機感を共有する同志ができれば有り難いなぁ、とあまり期待していなかった部分は、短期間で成果物となりました。

振替で岡山クラスで受けたこともありました

影響を受けた人はさまざま居りましたが、まずは塾長の松本紹圭師の物腰の柔らかさ、フラットなスタンスが特筆でした。この2つはお坊さんに求められる要素でありながら、備わっていない人が多く、ちやほやされて勘違いしてつけ上がる人が多い中で、とても安心できました。もう一人の講師である井出悦郎氏の僧侶では無いゆえの容赦ない批評。「お寺の互助会のような結衆というシステムは、お寺側だけの理屈でまかり通っているけど、檀家からしたら対価に値しないサービスレベルの場合が多い」とか。「ニーズがなく数字も伴わないことで、お寺にとっては大事だと言われても無駄としか思わない」とか。お寺や仏教に関わりのない一般人の忌憚のない意見ではっとすることが多かった。他にもお坊さんでありながら月刊13万PVのブログを運営する三原貴嗣師や、同じ副住職で在家出身という立場ながら、安産祈願を軸にお寺のカラーを変えた村上哲済師等から多くの刺激をいただきました。
 
 
自分は怠け者で、外圧がなければ動かない&動けない人間であるけれど、彼らの前で言葉に出して、お寺の使命やビジョンを語ることは、覚悟と責任を奮い起こすには十分でした。
お寺のビジョンについては、まだ副住職の立場の自分が語る口を持たないですが、自分が常光寺、碁石山にいる理由=使命についてはここで公言しておこうと思います。

会場の一つだった最上稲荷

私が考えるお寺の存在理由とは、”そこに住む人と関わる人に安心と安らぎを提供する存在でなければならない”と思います。
仏教的にどうだ、縁起はこうだ、という要素はありますが、そもそも仏教が日本に伝来して広く普及した理由、お寺の開祖が、その場所にお寺を開いた理由を紐解けば、そこに住む人たちのために、お寺が必要だと考えたためです。なぜ必要かと言えば、困っていたから。何に困っていたか?というと、悩み苦しみを解決できないでいたから。だから仏教の教義が役に立ち、それを説くお寺と住職に存在価値があったわけです。そのことを端的にまとめると、安心と安らぎを提供するためにお寺は在った、わけです。
 
そこから導き出した常光寺の使命は、

 

小豆島に住む人と、小豆島を巡礼する人に、安心と安らぎを提供する存在。そのために、檀家・非檀家の垣根を越えて、老若男女さまざまな方との縁を大切にし、その声に耳を傾け、「私たちのお寺」と想ってくれる人を増やし、共にお寺を護持していく。財政面だけでなく、人的バックアップも強固に備えた経営基盤を持ち、いついかなる時も、変わらずそこにあって、求められる役割に応えられるよう準備しておく。

 

です。
今の時代、1年後、3年後がどうなっているかわかりません。10年後なんて見当も付きません。お金の価値も目まぐるしく変わっていくでしょう。しかし、社会環境がどう変化しても、人を軸にしたお寺の使命に忠実に従っていけば、常光寺を必要とし、大切に想ってくれる人によって、その価値は不変であると思います。その結果、お寺は存続することができ、先人が護持してきたように、私も次の世代にお寺を引き継ぐことができるでしょう。
 
未来の住職塾に行ってよかったか?学んだことが役になったか?
ひとまずは、お寺の使命を自信を持って明文化できたいことでYesです。
他にも諸々学んだことを、次は実践&実践で実証し、檀家さんや家族にも甲斐があった、と認められるようにしていきたいと思います。

未来の住職塾に興味のある方は、第7期の無料体験教室があります。

宿泊にはゲストハウスをよく利用しました

夜遅くまでやってくれるレンタカー屋は重宝しましたが途中で辞めてしまいました

うどんをよく食べました

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